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これだから評論家という奴らは度し難い。

茂木健一郎 クオリア日記: 生命とは制御できないもののことである
生きものの定義を、「制御できないもの」としたらどうか。

違う、違う、違う。

生命とは制御するもののことである。

茂木健一郎 クオリア日記: 生命とは制御できないもののことである
ウィスキーはもともと「生命の水」と言う。原酒は制御できない。生きている。
ついでに、ウィスキーを飲んだ人間も制御できないものになる。より生き生きしてくる。

これはそうではない、とはっきり言える。なぜなら、つい最近本物のウィスキーをいただく機会があったからだ。右肩の写真がそれだ。知っている人が見れば、これが本物のウィスキーであることは写真からでもおわかりいただけると思う。

この二つ、樽も違えば味も違う。私のようながさつな舌の持ち主でも、違いがわかる。上戸である我々夫婦も双方ともウィスキーは苦手なのだが、そんな我々もこの二つはただうまいと舌を巻くほかなかった。「生命の水」、まさにそうである。このSpirit(蒸留酒)には確かにSpirit(魂)が宿っていた

確かに、その違いにだけ着目すれば、「生命とは制御できないものである」という感じることはわからぬでもない。しかしそう軽々しく口にするものは、一つ重要なことを忘れている。

この二つが、どちらもウィスキーであるということそのものだ。この二つには明らかに個性がある。しかしどちらもウィスキーという同一の属性を持っている。ハッカー的に言えば、この二つはどちらもウィスキーというクラスのインスタンスである。

それでは、何がウィスキーというクラスを作ったのか?

制御、である。大麦が勝手に芽を出し勝手に燻され勝手に蒸留され勝手に樽に収まるということはありえないのだ。その工程の一つ一つが制御なのである。

生命も、それと同じだ。少なすぎれば増やす。多すぎれば減らす。引かれれば押し、押されれば引く。そうやって頑張っても、「どうしようもない」ことは確かに残る。しかし昨日「どうしようもなかった」ことも今日は「どうやればどうにかできる」かをひねりだし、明日には「どうにかする」、それが生命なのである。

My Life Between Silicon Valley and Japan - 生命とは制御できないもののことである
「オープン」で偶有的なプロセスでやっていかないと生命体の成長はない、それが生命の一大原則なのだ、ネットは生命原理に近い事象を人間の脳とか情報の領域に起こすものだ、命を輝かせるためにはネットの偶有性の海に飛び込むべきなんだ、ミトコンドリアなんてもともと別の生物だったものを取り込み共存したものだ、だから我々は酸素呼吸できるようになったんだよ、過去の歴史でそれなりに名をなした人というのは、オープンにして外界とのやり取りの中で時にはぐちゃぐちゃになりながらそこを乗り越えて偉大なことをなした、同時代には毀誉褒貶の嵐にさらされそのプロセスから成長した人々が多い、人間の成長を分ける分水嶺は偶有性をどう受け入れるかであり、昔なら一部の公人にしか与えられなかったそういう場を自らつくって身を置くことができる可能性がネットで誰にも開かれたのだから今は素晴らしい時代なんだ。茂木さんはこんなことをおっしゃった。

偶有性を偶有性のまま放置していたら、今の生命はなかった。それだけは一生命体としてはっきりわかる。体でも心でも、それははっきりと感じ取ることが出来る。

その「どうにもならなかった」ことを「なんとかする」所業、それがハックであり、そしてその成果がコードである。

このウィスキーを持ってきてくれたのは、clkao。Perl Hackerでもあるのと同時に料理ハッカーでもある。彼が生み出すコードも料理も、彼にとってもユーザーにとっても「どうしようもない」ところというのは必ず残っている。そしてそれが時に「おもったよりよかった」ことは確かにある。しかしそもそもそれがコードや料理になったのは、彼がそれを「なんとかした」、すなわち制御したからだ。

制御とは、100.0000000000%期待どおりのものを作ることではない。それは制御でなく複製と呼ぶ。制御とは、期待の範囲内にものごとを収めることだ。どれほど個性的であってもウィスキーがウィスキーであるように。まだ一度もあなたの使ったことがないプログラムが、あなたの期待どおりに動いてくれるように。

「生命とは制御できないもののこと」などという言葉をのたまう評論家諸君に、以下の言葉を捧げる。

Shut the fuck up and write some code.

Dan the Life Hacker