Can't agree more.

佐藤秀の徒然\{?。?}/ワカリマシェン:「ロマンティックな」グーグル
全く意味不明というか、fashionable nonsenseだ。
茂木健一郎 クオリア日記: 茂木健一郎 東大駒場講義
Lecture 1 反応選択性批判、マッハの原理
音声ファイル(MP3, 77.7MB, 84分)
Lecture 2 Googleのようなgood old fashined A.I.が台頭した今、embodimentやintuition、複雑性に重きを置くromantic scienceはどうすれば良いか。
音声ファイル(MP3, 78.2MB, 85分)

そもそもGoogleをA.Iと言っている時点で nonsense だ。ただ、Googleがトンボをシカトして飛行機を作ったという指摘は確かにfashionableだ。

しかし、以下がせっかくのinsightをnonsenseにしている。

My Life Between Silicon Valley and Japan - 科学者に衝撃を与えた「ロマンティックでない」グーグル
我々科学者の「ロマンティックな研究態度」が脅(おびや)かされているんだ、いやもう敗れてしまったのではないか。「トンボのように飛ぶ」にはどうしたらいいかを科学者は未だに解明できないが、遥か昔に飛行機を発明し、人類は飛行機会を得た。それと同じことが今「知性の研究」の分野で起きつつあるんだ。お前たち、ロマンティックな研究をいくらやっていても「グーグル的なもの」に負けるぞ、時代はもう変わったんじゃないのか。茂木は若い研究者・学生たちをこうアジった。

これを見ると、本当に茂木は研究者なのか、単なる研究紹介者なのではないかという悪寒がしてならない。

「100億光年の旅」ハードカバー版 pp.178-179

二年間の練習でナノの糸をつかむ

さらに図のようにして、もう一本のニードルでアクチンフィラメントが切れるまで引っ張ると、アクチン分子の結合力を調べることができる。

これが言うは易く行うは難いことでして、ニードルは細いと行っても直径一ミクロンもあり、アクチンフィラメントのほうは直径7ナノメートルしかない。直径一メートルの巨大丸太で、直径七センチメートルのやわらかいロープをひっかけるようなものですから、常識ではできっこない。

[中略]

ある学生に練習すればできるからやってみろといったら、その学生は二年間毎日まるでテレビゲームでもやるかのように練習に練習をかさねて、本当にとうとうやってのけてしまいました。

こちらはまだ二年でケリがついたからまだましなのかも知れない。松本元は神経の研究で使うヤリイカの飼育法を見つけるのに5年かかっている。

Googleの中の連中だって、Mountain Viewのキャンパスの中でままごとをしているばかりではない。いや、以前に比べたらずいぶんとままごと臭くなっているように外から見ると感じるのだけど、それでもGoogleは研究と運用を分けてはいない。20パーセントルールばかり注目しているけど、8割の時間は退屈で泥臭い仕事をしているのだし、残りの2割のほとんども泥臭い仕事のはずだ。8割と2割の違いは、会社が与えて従業員が同意したか、従業員が勝手に選んだかのどちらかでしかない。どちらも99%は、外から見れば泥臭い退屈にしか見えないはずだ。

シリコンバレーからの手紙127 - 科学者に衝撃を与えた「ロマンティックでない」グーグル
とえばいまグーグルは、莫大な研究資金を投入して「グーグル・ブックサーチ」というプロジェクトを遂行中だ。世界中の主要図書館と契約し「人類の過去の叡智」たる蔵書数千万冊分をすべてスキャナーで読み取り、その字句を理解し、自動的に索引を生成し、すべて検索可能にするというプロジェクトである。しかし確かに茂木の言うように、ここに「ロマンティックな研究態度」は微塵も存在しない。日々行なわれていることといえば、安い労働力の手作業によって、世界各地の図書館の蔵書が一冊一冊、グーグルのコンピュータに取り込まれて整理されていくことである。

退屈度で見れば、丸太をロープで引っ掛ける方がよっぽど退屈なはずである。こういったことを「退屈な日常業務」と見るか、「Gotcha!に至る道」と見るかで、その作業に従事している人々の士気はがらりと変わるだろう。

とはいうものの、fashionable nonsenseの罠に引っかかっている者は他にもいくらでもいる。大物としてはノーベル賞がそれだ。パリティの破れに対するノーベル物理学賞は、LeeYangには渡されたがWuには渡されなかった。これは男尊女卑の例というよりは、理尊実卑とでもいうべき現象だろう。実際その他の例を見ても、実験家がノーベル賞を受賞するのは難しい。実験家が受賞するのは、傑出した理論家がどうしても見つからなかった場合に限られているようにすら見える。

かつてロマンスというのは、退屈な作業に耐えたものにだけ得る事ができるものであったが、今やこういったことは分業可能で、そのおかげか「見つける人」と「賞をもらう人」の乖離が、ノーベル賞に限らず広がっているように感じる。卑近なところでは、元記事よりも紹介記事の方が多くブクマされるなんてのもその一例かも知れない。

それでも、退屈な作業を喜々黙々と続ける人たちは、それを続けるのをやめないだろう。彼らはその先に何があるのかを知らない。しかしその先に至ったとき、どんな気持ちになるかは知っているのである。そして、その体験をした自分以外の何人たりとも、その気持ちを共感はできても共有することは出来ないということを。

Dan the Boring Romantist