こういう本を私は読まずにいられない。
「数え方でみがく日本語」や「 数え方の辞典」が答えてくれなかった疑問や、提出していなかった課題がここにある。
本書「はかり方の日本語」は、数量を通して日本語、そして日本人が世界をどう捉えているのかを考察した本。その考察がどれほど根源的かは、オビを見れば明らかだろう。
オビより「一日中」とは言えるのに、なぜ「一時間中」とは言えないのか? 「十、十一日」を声に出して読むとどうなる? 戦争は数えられるのに、平和が数えられないのはなぜか? 「2センチ長い鉛筆」は、なぜ長さが2センチの鉛筆ではないのか? 球も円も区別しないで「まるい」という理由は?目次 - 筑摩書房 はかり方の日本語 / 久島 茂 著を追補
などなど
- 数字と言葉
- 「豚肉三〇〇グラムは重すぎる」となぜ言えない
- 「10」を「じゅう」と読む不思議
- 出来事の数え方
- 時の表し方
- 巡る時間、流れる時間
- 明治時代の「時」と「時間」
- 時が主役、人間は脇役
- 声に出して読めない「時」
- 「〜年代」の使い方
- 時を数字で捉える
- 量をはかる言葉
- 面積の言葉―「広い」と「大きい」
- 形から生み出される言葉
- 目立つ量、隠れた量
- 空間に意味を与える「縦」と「横」
- 物と場所
参考文献
「数え方の辞典」がHowの本なら、本書はまさにWhyの本だ。なんで豚肉は三百グラムより「重かったり軽かったり」するのではなく「多かったり少なかったり」するのか、我々は日常考えるとはない。しかし問われてみると、それは実に不思議な事なのである。そしてそれは、必ずしも物理の特性と一致していない。
それは「世界そのもの」ではなく「日本語を通して見ている世界」なのだ。数量をその言語がどう扱うかというのは、だからその言語の世界観に直結している。あまりに深く自然に直結しているので、日頃はその言葉を習いたての一でない限りそういう疑問が出て来ないほどだ。言語の数量感というのはまさに空気なのである。
そして本書からは少し外れるのだが、この数量感というのは、むしろ言語間の相違よりも共通点が目立つところでもある。確かに数詞のレベルで見ると日本語は特殊に見える。しかし球も円も「まるい」のは、英語もそうである。そもそも「球と円」が、「たまとまる」、"A sphere and a circle"と一対一で直訳できる事実に、私は言語を超えたヒトの数量感というものを感じる。
そう。数量という。「数」と「量」を我々は区別している。「多数」に対して「大量」、manyに対してmuch。"How much?"に対して"How many (dollars|euros|yen)?"。もちろん細かい点で違いはある。例えば英語では「何番目」がきちんと言えない、日本語では「十、十一日」と声に出して読めない、などなど。それでも、何が「数」で何が「量」かという感覚は、恐ろしいほど似ている。
こういう子供のころ疑問に思っていたのに、いつの魔に「空気化」している疑問に答える本こそ、真の大人の本なのではないだろうか。「そういうものだ」、"That's the way it is"というのは、オトナの答えではあっても大人の答ではない。
日本語が好きな人にも嫌いな人にも、数量が好きな人にも嫌いな人にも、そしてなによりも「そういうものだ」に耐えられない人にお薦めの一冊。税込み714円というのはあまりに少ない、いや安いではないか。
Dan the Nullingual

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