実に貴重な本である。
元が頭につくにしろ、裁判官経験者が一般向けに本を書くことなど滅多にない、というよりこの人以外の裁判官経験者が書いた一般向けの本があったら是非教えていただきたい。
裁判官はなぜ狂うのか。
本書を丁寧に読めば、それが見えてくる。
本書「狂った裁判官」は、「 司法のしゃべりすぎ」を書いて「干された」著者が、その裁判官としての経験を元に現代日本の判事、裁判所、そして司法を批判した本。裁判官のホンネを聞きたかったら、今のところ井上の著書をひもとくしかない。その意味で井上は司法と市井を繋ぐ実に細い糸である。
たとえば、裁判官は転勤が多いのに、休暇で海外旅行に行けないそうだ。多忙だからということもあるが、その合間をぬってスケジュールを立てても却下なのだそうである。こういったことは、当事者でないとわからない。
その一方、当事者であるが故に損なわれる客観性というのもある。著者自身それをある程度認めているし、そして著者の手前味噌ぶりも、本書読了後にジャーナリストの手による「裁判所が国を滅ぼす」を読むと改めてはっきりする。そういった「判事史観」を学ぶためにも、本書には一読の価値がある。
そう。「狂った裁判官」とは、著者自身のことでもあるのだ。
裁判官らしく文章は理路騒然としている。ましてや著者は化学の修士を経て司法試験に合格したこともあってか、実にわかりやすい文章を書く。だからこそ、著者自身の狂いもより明白になる。
ただし、ここでいうところの「狂い」は「狂気」とは違う。佐藤優に感じる「正気を極めた末にたどりついた独特の狂気」というものでもない。そんなに詩的かつ大袈裟なものではない。もっと散文的かつ現実的に、「このネジ穴は狂っている」という時に使う、そういう種類の「狂い」だ。
その狂い方は読むに従って段々進んでくる。だからページの最初の方ではうなずくことが多いのに、読み終わる頃には首をかしげてしまう。わずかな狂いがだんだん増幅されて、許容範囲を逸脱していく、そんな感じなのである。
それでは裁判官は何から逸脱していくのだろうか?
市井、である。
著者は本書で何度も「民意におもねってはならない」と口にする。それは確かだ。司法の一番の役割は、市井の狂気から市民を守ることこそあるのだから。そう。「市民を守る」。民意におもねることを避けるあまり、この根本を裁判官たちは忘れてしまうのだ。
著者は裁判官にしては非常に珍しく、「娑婆」にいた期間がかなりある。1954年生まれの著者が判事補となったのは、1986年。32歳の時だ。その著者にしてからが、「判事史観」に徐々に染まって行く。著者自身も意識していないのだろうが、本書を読むとその過程が肌で感じられる。本に移入しやすい人にはそれが伝染するのではないかと思えるほどだ。
裁判官に限った話ではないが、弁護士以外の司法関係者は、あまりに娑婆を知らなさすぎる。それどころか娑婆を知らぬことを一種の誇りに感じている気配すらある。それが市民を司法から遠ざけているのが理解できないのだろうか。民事裁判を起こして原告の主張どおりの判決を得ても、とどのつまりは執行しようがない空判決ということがしばしばある。これでは裁判所よりもヤクザの方がたよりになると思い込む人は後をたたないだろう。
個人的には、裁判官の最小年齢は40歳だと思う。文字通りの不惑。それであれば、それまでに充分娑婆を経験することが出来る。20代は「ふつうの人」として仕事をし、30代で弁護士となり、そうして司法の「あちら側」と「こちら側」を充分経験してから就いて欲しい職だ。極論してしまえば、判事補なる職種は不要。最初から判事の責任にふさわしい待遇を与えればよい。
さらに欲を言えば、そうして判事として、現行法の限界を知った上で、議員に転じて法を司る側から立てる側に回ってもらうのが理想的に思えるが、そんな理想は現代の司法の現実の前には消し飛ぶ。裁判官は忙がし過ぎるのだ。
日本女性法律家協会：女性法曹の変遷によると、2005年4月現在における裁判官の総数は3,266名。これでもかなり増えたのだが、それでも38,600人に一人しかいない。これでは裁判官以外のことをしている暇はとてもない。市民もそれを知っている。司法があまりに経済的コストも時間的コストもかかる上に、得るものが少ない骨折り損のくたびれ儲けであることを知っている。もちろん裁判官も知っている。「土下座してでも和解に持ち込みたい裁判官」というオビの文句は伊達じゃないのだ。
これで狂わない方が、おかしいではないか。
本書が名著かというと、大いに疑問だ。Amazonの★3つというのは妥当だろう。しかし、本書は名著でないからこそ、元裁判官という、判決主文はとにかく市井に向かってものを書くということに関しては素人の本だからこそ、価値があるのである。肉声でないと駄目なのだ。
同じ素人本なら、「セレブの独白本」よりはるかにましである。セレブの独白なら、今やブログでだって読める。しかし裁判官の独白は、著者の本でしか読めないのだから。
Dan the Coder
「裁判官経験者が一般向けに本を書くことなど滅多にない」は言い過ぎかと。