この話が信じられないという人がいたら、これを見るべし。

子供を可愛いと思わなかった時代 - FIFTH EDITION
せっかくなんで、今日はイギリス近代の子ども観のお話。

以下の部分だけでも、その様子がわかる。YouTubeでなくてGoogle Videoってのがらしいというか....

もちろんこれはネタなのだけど、ネタがネタとして通用するだけの社会背景がかの国にはあったのだということ。ハリウッドには逆立ちしてもこういうものは作れない。脚本書いただけでもヤバい。

しかも、この子供の扱い、中世においては別に庶民の専売特許ではなかった。

ルネサンスの女たち」 - 塩野七生 収録 「カテリーナ・スフォルツァ」
(「高校生のための文章読本」にも収録)
 次の日、陰謀者たちは、カテリーナの子供のうち上の子二人を城塞の前に引き連れてきた。子供を使って、彼女を変心させようとしたのである。
 剣をつきつけられた子供たちは、泣きながら母親を呼んだ。
 その時、カテリーナが姿を現した。裸足で髪も結わずに流したままの姿で。オルシは、城壁を出なければこの子供たちを殺す、といった。それに答えた彼女の言葉こそ、マキアヴェッリ以下、あらゆる歴史家に語りつがれた有名な文句である。やおらスカートのすそをぱあっとめくったカテリーナは叫んだ。
 「なんたる馬鹿者よ。私はこれであと何人だって子供ぐらいつくれるのを知らないのか!」

まあこれはカテリーナ・スフォルツァならではという見方も出来るし、オルシたちが子供を人質に取ったのは、たとえ子供といえど人質としての効果を見込んでのことではあるのだけど、その期待をさらりと裏切れるだけの時代背景もまた見えてくる。某時代の某国政府には絶対無理なことを、中世の女は一人でやってのけたわけだ。

このことをもって、「イギリス人と奴は」とか「中世という奴は」というのはたやすいが、しかしこれらを見て感じる違和感の中に、時代を超えた真理が一つ隠れているように私には思える。

それは、なにかを大切にするということは、別のなにかをおろそかにすることである、ということ。何かを得たということは、別の何かを確実に逸したということなのだ。

「〜を大切にしましょう」という大人は、だからもっと大切なもう半分を言いそびれていることになる。嘘とまでは言えないが真実を語ったとは言えない。

「人命は地球より重い」と言っている人も、「地球にやさしい」と言っている人も、そのことを知った上で言っているのだろうか。

我々が「大切にできるもの」の総量は、増えているのだろうか。「大切にすべきもの」が増えたかげで、「おそろかにしているもの」が増えているだけでないと示すにはどうしたらよいのだろうか....

Dan the Foresake(r|n)