無知である事を知ることは、大いなる喜びであると私は常々思ってきた。
しかし本書に思い知らされる無知は、無知を知る事が喜びであるということが一般化するにはあまりに甘い仮説であることを思い知らせずにはいられない。
本書「貧困の光景」は、今では日本では事実上絶滅してしまった本当の貧困を教えてくれる。「希有な一冊」と書きたい所だが、本書の主題は曽野綾子のノンフィクション全てに共通しており、そしてその数が少ないとは言えない以上、少なくとも「希有な一冊」ではない。しかし本当の貧困をこれだけ長い間看続けてきたという意味で曽野綾子が希有な一作家だという事は確かだろう。
P.43エチオピアは物質に貧しく、日本は精神に貧しかった
という著者に対して、自省にせよ反感にせよ、何も感ぜず「そうですが、なにか?」と言い切れる人はそうはいないだろう。少なくとも「貧困とは何か」という点に関して、著者以上に場数を踏んで来た人はまずいない。その現実から目をそらさぬ姿勢に、畏敬の念を抱かずにはいられない。
それゆえに、その透徹した視線とはあまりにちぐはぐな、
オビより日本は社会の格差の増大に苦しむという(略)、そういう人は、電気のない干ばつのアフリカ、砂漠の続く酷暑のアラビアで、まずほんの短時間にせよ、生きてみたらどうか。そして飢えに苦しむ人々に自分の食べるパンの半分を割いて与えるという人道の基本を体験したらどうか、ということだ。
という正しくも陳腐な言葉に目眩に近い困惑を禁じ得ない。「現状はこうである」という描写の迫力と「だからこう行動すべきである」という提言の凡庸のコントラストが、まるで砂漠の月のように鮮明なのだ。
著者も、このことは自覚している。
こうした悪循環をきれいに断ち切るにはどうしたらできるか。私はいまだに確実な方途を見いださないのである。
失礼を承知でいうと、少なくとも著者やイエスズ会がやってきた行動が、その方途ではないことは歴史が証明したのではないか。局所単位では「正しい」修道女たちの活動が、大域的には状況の改善にはつながらなかったのだ。マザーテレサはノーベル賞を取ったが、しかしインドにおける貧困はまだそのままだった。貧困の改善という点に関しては、むしろ同じノーベル賞受賞者でもムハマド・ユヌスという金貸しの功績の方が大きく見える。しかし、それは著者達が「役立たず」だったということおではない。「とうちゃんよりかあちゃんの方が堅実」という知見は、むしろ著者達が先に得たものであり、マイクロファイナンスもこうした知見がなければ生まれなかったはずだ。
「七夕の国」的に言えば、曽野綾子は「窓がひらいた人」ということであり、「手が届く人」とは異なっていてもおかしくないのだ。
しかし、少なくともなぜアフリカに貧困がはびこるようになったかという点に関しては、曽野綾子でなくてもはっきりとわかる。「北の国々」が、貧困の存在を前提とする経済システムをインストールしたまま帰ったからだ。世界のどこにも貧困があり、貧困こそが人類社会のデフォルトという意見もあるし、それは真実だろう。しかし元からアフリカがこれほど貧困だったわけではない。かつてかの地には、文明の利器もなかった代わりにカラシニコフもHIVもなかったのだ。
我々が貧困を知らぬ以上に、彼らは貧困以外の状態を知らない。「北の国々」は独立という形で彼らを放置したが、あのような形で彼らの「民族自治権」を尊重するのは、子供を学校にも通わせずさんざんただ働きさせたあげくに、読めもしないメニューを見せて「お好きなコースをお選びください」と言っているようなものだ。
日本人は貧困に関して無知ではあるが、「北の国々」の人々ほど厚顔ではないということは言い切ってよいと思う。
しかし、そのことをもって「北の国々」をなじっても、貧困はなくならない。
こういう手はどうだろうか。南の貧困をなくすにあたって、北の国々には金だけ出させ、人は日本から出すというのは。現状はこの逆の形になっているが、この方がうまく行くのではないか。そんなことを妄想しながら本書を読了した。
Dan the Thinking Poor
「それ(選民教育)が”ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ。」
日本で教育格差を広げるきっかけを作った人達の一人です。