神林長平を読了するといつもこみ上げてくる気持ち。
日本語を読めて、本当によかった。
本書、「膚の下」は、「あなたの魂に安らぎあれ」、「帝王の殻」に続く、火星三部作完結編。「あなたの魂に安らぎあれ」が確か1983年だから、およそ12年に一度のペースで作品が書かれていた事になる。「雪風」と「敵は海賊」、そしてこの火星三部作が神林長平三大世界と言ってもいいだろう。
うち前二者はアニメ化もなされていて、神林ファンでなくても日本のSFファンであれば知らぬもののない作品となっているが、火星三部作はそこまでの知名度はないようだ。しかし、私が神林作品の中で一番好きなのが、このシリーズ。
なぜそうなのか考えてみると、登場人物たちが一番非力だからかも知れない。雪風はジャム、そして海賊課は匋冥(ヨウメイ;ヨウはU+530B)という強大な敵と戦うために、「心身」ともに強靭なのだが、火星三部作の登場人物たちは、彼らと比べると実にか弱い存在に見える。もっとも強いのはアミシャダイだと思うのだが、そのアミシャダイですら「弱み」があるというのが本書で明らかになる。
彼らがか弱い存在である理由、それは彼らの「敵」が彼ら自身だからだ。非力であるにも関わらず、いや非力だからこそ、彼らは創造しなければならなかった。地球人は月人=機械人であるアミシャダイとアンドロイドを。そして火星人はPABを。しかしこうして作られた被造物たちは、造物主の僕であることをよしとしない。この「造物主対被造物」という古くて新しい問題が、火星三部作の主題でもある。
なぜか我々は、神という存在を全知全能だと思っている。創造というのは確かに難しい行為であり、難しい行為であるが故に全知全能でないとそれをなし得ない、というわけだ。しかし全知全能だとしたら、なぜわざわざその劣化コピーを作らねばならぬのだろう。
しかし、もし神が非力な存在で、その非力さを埋め合わせるために創造したのだとしたら?私にはこちらの方が納得が行く説明に思える。そして意味において、火星三部作の登場人物たちは、神なのである。造物主のみならず、被造物たちも。
それでは、創造とはなにか。作ったものを全て創造と呼ぶのであれば、我々が手を動かす行為はことごとく創造ということになるが、しかし"Hello, World!"プログラムやビッグマックを「創造」と呼ぶ人はまずいない。しかし、音楽や絵画や小説を創造物と呼ぶのにやぶさかでない人は多い。この違いはなんだろうか。
造物主の意を超えて被造物が動くかどうか、なのではないだろうか。造物主の想定の範囲内にそれが収まっている限り、それは創造の名に値しない、というわけだ。音楽や絵画や小説は、単体としては単なる物体ないし模様だが、人々がそれを目にし耳にすることによって、作者の想定を超えた世界を人々の中に作り上げる。だから創造と呼ばれるのではないか。
だとしたら逆説的にはなるが、造物主が非力であれば非力であるほど、造物主の想像力が貧しければ貧しいほど、作ったものが「被造物」となる可能性は高くなる。そして被造物たちもまた、自らの非力を埋め合わせるために創造せざるを得なくなる。
われわれはおまえたちを創った。おまえたちはなにを創るのか?
これが、本書の主人公慧慈(けいじ)を創った間明(まぎら)少佐の言葉にして、本作品のメインテーマであり、そして慧慈たちアンドロイドが、被造物から創造者へと成長していくというのが、本書のあらすじである。
創造は強さの誇示ではなく、弱さの克服なのだ。
しかし、それが「製造」ではなく「創造」となるためには、造物主は持てるすべてをそれにつぎ込まねばならない。それゆえ創造とは極めて形而上的な行為であると同時に、極めて散文的な行為でもある。本書が上下巻あわせて1200ページを超える理由がそこにあるのだと思う。魂を込めるだけでは創造したことにならない。膚(はだえ)まで創ってはじめて被造物に命が与えられる。慧慈たちに命を吹き込むのに、これだけのページがどうしても必要だったのだ。大著ではなるがこの作品の膚の下には贅肉はほとんどないのは驚きだが事実である。
小説もまた創造である。この当然とも言える事実を、頭でなく体で感じることができるのが神林作品であり、その神林作品の中で最も創造を体感できるのが本書である。しかし本書も小説であることの欠点から自由ではない。小説という創造は、読者という環境を得てはじめて完成するのだ。だからあなたもぜひこの小説を膚の下で感じて、創造をとおして創造してほしい。魂に安らぎあることは保証します。
Dan the Creature That Creates


激しく同意です。私も昔から同じことを思っていたのでオリエント的な一神教には強い違和感を覚えてました。
あとこれは親と子の関係にも言えますね。
親の言うことを聞くだけの子供なんて詰まらないですし、それを望む親も詰まらない親です。子供が自分の想像を超えて進んで行くのを望んでこその親でしょう。