ネット言論的には、好きこそ仕事にすべきだというのが趨勢のようになっているけど、みんな、本当にそれでいいのか?

小野和俊のブログ:梅田望夫氏が言うように、好きなことを貫いて仕事にしていくためにはどのようにすればよいのか
では、好きなことを貫いていくには、どのようにすればよいのでしょうか。

好きを仕事にするべきでない三つの理由

というわけで、まずは好きを仕事にすることに関する問題点を指摘してみる。

みんなが好きな仕事は、常に過剰供給

作家、俳優、アスリート....どれも世界中の人が好きで、世界中から人材供給がある。どの国でも底辺は最低賃金ギリギリかそれ以下。それでも誰も文句を言わないのは、みんな「好き」だから。「好き」は最高の免罪符。極貧?過労?好きになったあなたが悪い。

あなたが仕事が好きでも、仕事があなたを好きとは限らない

あなたがその仕事がどんなに好きでも、仕事はもっと上手にその仕事をこなす人のところに来る。逆の立場で考えてみよう。あなたは客として、仕事を愛してやまないが、納期も品質もイマイチの人に仕事を頼むか、それとも仕事を好きなそぶりも見せないが、納期も品質もばっちりの人に仕事を頼むか。

あなたが愛しているほど、仕事はあなたを愛しているとは限らない。

恋愛と結婚

好きになることが恋愛なら、好きを仕事にすることは結婚に相当する。その仕事に対するコミットメントを増せば増すほど、他の仕事をする機会からは遠ざからなければならない。そしてそれを仕事にする以上、それを疎ましく感じる瞬間は必ずある。配偶者をうざく感じた事が全くない夫婦は存在しない。いたとしても世間体をとりつくろってそう言っているか、鈍感かのどちらかだ。

仕事も同様で、仕事と相思相愛の関係になっても、それが嫌になる瞬間というのは必ずある。それが転じて、あれほど好きだった仕事が手に付かなくなることも珍しくない。あなたはそれに耐えられるか?

仕事を好きにするための三つの方法

恋愛と仕事に共通すること、それは「惚れた方が負け」ということ。好きを貫いて仕事もあなたに尽くす。なんともロマンティックだ。しかし「二人は幸せにくらしましたとさ」というのは童話まで。大人の物語は、「幸せにくらしましたとさ」を成立させることこそ本編なのである。

それであれば、仕事を好きになるより、仕事の方があなたを好きになるように仕向けた方がいいではないか。そうするためにはどうすればよいか。

仕事は誠実な者に惚れる

まずは、今ある仕事をきちんとこなすところからはじめて見よう。それは必ずしもあなたが好きな仕事ではないかも知れない。好き嫌いはさておき、どうしたらその仕事がきちんと片付くかを考えてみよう。仕事そのものを目標にするのではなく、仕事の完了を目標にするのだ。大事なのは、やりとげるまできちんとやること。

そうして仕事をきちんとクリアーしていくと、面白いもので、かつてあれほど疎ましく思えた仕事が楽しくなってくる。かつては見えなかったその仕事の美点も見えてくる。そのうち、「今まではこのやり方でやってきたけど、別のやり方も試してみるか」という余裕さえ生まれてくる。

仕事は浮気に寛大

前段と矛盾するようだが、仕事は人間の配偶者と違って、誠意は要求するが貞節は要求しない。誠意とその誠意を担保するだけの能力を示したものには、別の仕事がやってくる。そういう据え膳はきちんと平らげよう。大事なのは、前段と同じく誠意をもって平らげる事。食い残しは一番よろしくない。食べ切る自信がないならやめておこう。

こうして「きちんと平らげた」実績は、元の仕事でもポジティブに評価される。あなたが別の仕事で得た芸がそこでも役に立つ事を知っているからだ。

www.textfile.org - 「好きなこと」と「仕事」
結城も好きなことを毎日やっていますけれど、自分の場合には「好きなことを貫いて仕事にしていく」というのとは少しニュアンスが違うかも、と思いました。私はやりたいことがしょっちゅう変わるし、飽きっぽいので「貫いて」というのがまずできない。それから「好きなこと」はしているけれど「仕事」としてというよりは「アマチュアっぽく」やってる感じがいつもどこかでつきまとっています(それがいやなわけではない)。

それでもそれが仕事になっているのは、記事や本という形で、仕事が「食べ切っている」からだと確信する。「アマチュアっぽく」という言葉を真に受けては行けない。やりとげている以上、プロなのだから。

仕事は誠意ある浮気者に惚れるのだ。

仕事増やすな仲間を増やせ

ある意味究極の仕事は、仕事そのものを生み出す仕事。「仕事を増やす」というのとは似ていて正反対。Matzさんのケースが、まさにそれ。

Matzにっき(2007-06-01)
たぶん私は、私の直接知っている人の中で一番「好きなことを貫いて仕事にしている」人だと 自分でも思うが、確かに「Rubyのまつもと」は他の人では交換不可能だし、 結構縛られないで自由に生きているような気がする。

今でこそRubyそのものが仕事になっているけど、かつてはRubyという仕事そのものが存在しなかった。しかしRubyが好きな人が増えるにつれ、Rubyそのものを仕事にできるようになって来たというわけだ。

それを言えば、プログラマーだってそうだ。かつてプログラムはハードウェアのおまけだった。しかしそれを好きな人たちが、「プログラムで出来ること」を増やして行った結果、独立した仕事として成立するだけの市場を確保した。

どんな仕事だって、はじめは片手間の手慰みから始まったのだ。農業ですらそのはずだ。はじめは狩猟採取こそ主で、種を播いて育てるのは暇な時にやっていたはずだ。それが思わぬ収穫をもたらすことを知ってはじめて野良仕事は仕事となったはず。

注意して欲しいのは、仕事そのものを生み出す仕事そのものは、「仕事化」できないということ。それが「仕事」になるまでは、「遊び」にしておかなければならない。その間の糊口をしのぐためにも、すでに「仕事」になっているものはきっちりやっておくべきだろう。

月並みな結論

一言でまとめると、結局のところ「よく学び、よく遊べ」ということになってしまうのだろう。よく学ばないものに仕事は来ない。よく遊ばないものに仕事は見つけられない。

告白すると、私には今だ貫くほど好きな仕事には巡り会っていない。やって来た仕事とつきあっているうちに今に至るというのが心境だ。それでもどんな仕事とも、いったんつきあい始めたらまじめにおつきあいしてきたし、そのおかげか今では仕事がいくつあるのか本人にも分からず、自己紹介が面倒になってきた。「職業、弾」でまとめられないかなあ。

Dan the Man with Too Many Trades