これを読んで、なぜオープンソースがうまく行くかがまた少し理解できたような気がした。

Who is to blame? (内田樹の研究室)
マニュアルというのは責任範囲・労働内容を明文化することであるからであるが、ミスはある人の「責任範囲」と別の人の「責任範囲」の中間に拡がるあの広大な「グレーゾーン」において発生するものだからである。

オープンソースで一番重要なコンセプトってなんだろうか。

無料で使えること?ソースコードが公開されていること?

違う。オープンソースで一番重要なこと、それは責任者が制作者ではなく使用者になっていることなのだ。それを利用して得た結果に対して、制作者が代価を要求することもないが、制作者に被害を賠償してもらうことも出来ないのだ。オープンソースを利用した結果責任は、常に利用者にある。このことが、どれだけ開発者たちの心理負担を軽減しているかは計り知れない。

利用者は、これに対して、三つの選択肢が与えられている。

  1. それを使わない - Microsoft推奨の方法:-)
  2. 自らの責任において使う - 「オープンソース」という言葉が存在する前から存在していた理念
  3. 責任代行者に代価を支払う - 「オープンソース」という言葉とほぼ同時に生まれた概念 - IBM, Redhatなど

経済の根本は「交換」にあるが、ソフトウェアには手に取って感じられるものはない。コピーされてもコピーされた者にすらそれがわからない。しかし仕事が片付く、生活が便利になる、余暇が楽しくなるという効用はたしかに存在する。効用が存在する以上、価値は確かにある。さあ、どうやってソフトウェアを経済に載せる -- ポート -- するか?

最初に登場したのは、それが他の物品と同じ「もの」と仮定するという方法だ。「もの」なのだから「ぬすんだ」ら「もの」を盗んだ時と同じように罰しますよ。これが、IP - Intellectual Propertyの根源のある考えかた。これでとりあえず経済に載せる事はできたけど、ソフトウェアはそのおかげで「もの」と同じ制約をも受けることになった。そうする必要がないのにあえてパッケージという「もの」の封じ込めたり、本来コピー可能なのにわざわざ手間暇をかけてコピー不能にしたり。

これでは、ソフトウェアの特性が欠点にしか見えないではないか。

オープンソースは、ソフトウェアはあくまでソフトウェアであるという点に忠実だ。コピーは可能だからそれを止めるようなことはしない。改変も可能だからそれを止めるようなことはしない。しかしそれを使ってあなたが傷ついても、わたしを責めることは許されない。もし私を責めたかったら、適切な代価を払いなさい。

そう考えてみると、オープンソースというのは、Intellectual Propertiesよりソフトウェアの特性(properties)に忠実であるだけではなく、経済の仕組みにも忠実だと言えるのではないか。なにしろ通貨というヴァーチャルな概念と物品というフィジカルな存在を交換するのではなく、責任というヴァーチャルな概念を交換するのだから。

経済的に見たオープンソースの価値というのは、実は上記の3.が誕生した時に誕生したと言ってもいいように思う。それを言語化したEric RaymondはやはりVisionaryだ。

とはいえ、「それに価値があり、価値交換をどうやればいいか」という定性的な質問には一応の答えを見いだせても、「それではそれにいったいいくら支払うのがふさわしいか」という定量的な質問は未だ手探りである。VA Linuxの株価がそれをあまりに痛々しい形で示している。

ここで言う「それ」はオープンソースではない。「責任」、である。

詭弁に聞こえるかも知れないが、「オープンソースがわからない」のは、オープンソースが悪いのではなく、我々が「責任の代価にいくら支払えばいいのか」わかっていないことの証しなのだ。「需要と供給のバランス」で決まるという経済学の決まり文句が冗句にしか見えないほど、この件に関しては我々は知らない。

しかし、それを知った時に、はじめて Open Source は 1.0 になる。そんな気がする。

Dan the Open Source Programmer