すでにこれに関しては、
伊藤剛のトカトントニズム - セクハラ概念の拡大解釈による辞職勧告薄井氏が当選直前まで風俗記者をしていたこと、その際の動画が現在でもウェブで見られることを、そのまま朝木氏への「セクハラ」と解釈し、辞職を勧告しているのです。
すでに期待どおりの方が期待どおりの対応をしているのだけど、
NC-15 - キチガイ議員、矢野ほづみと朝木直子は議員やる前に奥多摩で首吊って死ねよ縄なら俺が貸してやるよ。
なので私としては付け加えることはないのだけど、この問題の一般項について私が考えたことは晒すに値すると思うので本entryに。
それは何かというと、「過去の自分に、どう向き合って行けばいいのか」という問題だ。
いや、人に記憶というものがある以上、これは昔から存在した問題という人もいるだろう。その通りだ。しかしかつては、ほとんどの人が持っていた過去は記憶だけで記録ではなかった。そのうち人は文字を発明し、写真を発明し、映画を発明し、少しずつ記録を持つようにはなったが、それらの記録は意識的に取る必要があり、そしてそれなりの手間も暇もかかるものだった。だから人々は記録する前に、それが記録するに値するかを吟味しながら記録していた。銀塩時代の写真がそうであったように。
記録されざるものは、記憶に残るのみで、しかもその記憶は時を経るごとに色褪せて行くものだった。認めたくない過ちも、そうして痛みは癒えて行き、思い出だけがのこり、その思い出も本人が亡くなれば消えて行く。
しかし、記録するという行為の手間と暇がこれだけ安くなると、「とりあえず記録しておく」ということが多くなった。我々がデジカメを使うときがまさにそうだ。押せるだけシャッターを押して、何を「使うか」は後回し。そのうちいくつかは、「とりあえず」flickrにでも上げておく。
写真以外の記録も然り。今日考えたことは「とりあえず」blogに書く。それすら煩わしければtumblrにでも転がしておく。そのうちのいくつかは「とりあえず」del.icio.usやはてブにブクマされ、人々はそれらに「とりあえず」目を通す。
しかしこうして「とりあえず」取られた記録に、記憶が薄れた頃に苛まれる機会というのが、今後ますます増えるのではないだろうか。今回の件で想起されたのは、そのことだった。風俗産業のための記録というのは、その一番分かりやすい例の一つに過ぎない。
デジタルな記録は、褪せることを知らない。今売られているアダルトビデオは、50年経ってもそのまま「使える」だろう。そこには若かったころ、「とりあえず」金と引き換えに記録させた肢体が、いつまでも老いることなく晒されている。これに耐えられる人がどれだけいるのだろうか。
デジタルになる前ですら、過去の自分に祟られることは少なくなかった。Sylvester Stalloneも、Rockyで当たらなければ$200のために出たポルノを再販されることはなかっただろう。しかし、今や過去の自分に苛まれるのはセレブだけではないのだ。おそらく「尻毛バーガー」の写真をこの世から消し去ることは不可能なのではないか。それはどこかのだれかのハードディスクの中で、1ビットも褪せることなく「生き続ける」に違いない。
One day the pain would be gone; but never the memory.
忘れようのない、あまりに感動的な最後の一行なのだが、記憶が褪せても記録が褪せなければ、痛みも「成仏」できないような気もまたする。
明日の予定から今日の思いつきまで、我々は忘れるのが怖くて記録する。しかし、忘れられないことは、もっと怖いのではないか。我々は永遠に褪せぬ記録の中で、痛みを忘れることが出来るのだろうか。
不可能ではない、と思う。しかし、それは1年前の今日、自分が何を食べたか思い出せなくなるほど「自然」に出来ることでもないと思う。矢野穂積議員になぜこれほどの嫌悪感を感じるかといえば、そのことに関してあまりにも鈍感だからだ。しかし彼女もまたある意味「過去の記録」の犠牲者だと言えなくもない。議員としてはあまりに浅はかであるとは思うけど、しかし「色褪せぬ過去」とのつき合い方は、まだ社会常識となっていないのも事実なのだから。
何年後かに本entryを読み返したとき、それを笑い飛ばせればいいのだけど。
Dan the Amnesiac by Trade

結構良識的なキャプ画で、そこそこ的をついている。この画自体は非難になりませんな〜。