この「可能無限」という言葉は、120% Fasionable Nonsenseだと考えている。それも、人畜無害なものではなく、「水からの伝言」なみかそれ以上に危険な。

My Life Between Silicon Valley and Japan - フューチャリスト宣言や茂木さんのことやはてなのことなどを酔っ払いながら書いてみる
茂木さんが最初に「自分が書いた文章」を披露しながら、「自分は可能無限の世界を愛していて、人間の有限性というのを受け入れることが未だにできずにいる。だから物事を決められないのが自分の欠点なんだ。弱さなんだ。そういう秘密を頭に浮かべながら、この文章書きました」みたいな話をしていた。

茂木は可能無限を以下のように定義している。

フューチャリスト宣言 p.156
最近のマイブームに、「可能無限」という概念があります。もともと数学用語で、自然数を1、2、3...と数えて行ったときに、どんな大きな数(n)を考えてみても、さらに大きな数(n+1)を、可能性としてどこまでも提示できるということ。可能無限は、「もう一つ増やす余地がある」という意味での「空白」によって常に支えられている。

「茂木センセ、それ、『可算無限(countable infinity)』のtypoでっか?」で片付かない問題が、ここには潜んでいる。なぜなら「あなたたちには無限の可能性があります」と大人が言う時には「無限の可能性があるのですから、あなたが望む未来もその中に含まれています」ということを行間で主張しているからだ。要はそれが本当かどうか、ということだ。

Q:可能性が無限として、その中にあなたが探しているものは必ず見つかるか?

私の8歳の娘にもわかる反証をしてみよう。ある国では、偶数の番号札を持っている人には必ず年金を出す事にしている。出生時に番号札は必ず渡される。あなたもそれを持っている。そこには見間違えようのない自然数が書いてある。あなたは年金をもらえるだろうか?

そこに奇数の番号が書いてあったら、答えはNo、だ。国が無限の予算を持っていても、あなたが年金をもらうことはない。これは、「無限の可能性が、解の存在を保証しない」一番トリビアルな例。

この設問、実は私が積極的不登校を決めた理由の一つになっている。上記の問答を教師としたのだ。彼は数学の教師だったのだが、これを彼は「屁理屈」の一言で片付けた。私にとっては切実な問題でも、彼にとっては、授業の妨げにしかならない揚げ足取りというわけだ。

後に私は、これをもっとシステマティックにやっている例を知る事になる。イスラエルの電話番号だ。大学生だった時に、パレスティナ人の友人に聞いた話なのだが、彼女によると、かの国では、電話番号を見るだけでそれがユダヤ人のものか否かが分かるのだそうだ。それが上記のメソッド。「市民」に「可能無限」を保証しつつ、非ユダヤ人を完璧に排除するシステムを、彼らは実にあっさり構築したわけだ。

イスラエルの名誉のために言っておくと、これは20年前の話であり、今もそうなのかは、そもそも本当にそうだったのかはわからない。しかしここで問題にしたいのは、イスラエルの人権侵害ではない。

私は、物心がついた時から「偶数の世界」(even world)で、奇数番号(odd number)を持っているという感覚をずっと抱いて来た。世の中には何もかもあるが、自分の居場所だけはそこにない、という感覚。それが錯覚であればいいのだが、そういう世界の実装の仕方を私はあまりに多く知っているのだ。

最も簡単なのは、偶数を装って生きる事。猫ならぬ一をかぶって過ごすのは、それほど難しくない。しかしそれを四六時中やっていては、膚も心も荒む。私はここにいてはいけないのに、世の中に嘘をついてまでここにいる。その結果その場所の正当な持ち主の居場所を奪っているのではないかという罪悪感さえ抱くようになる。

私は、少なくとも「君たちには無限の可能性があります」という詭弁を言いたくもないし、ましてやそれが詭弁であることすら気がつかないほどの莫迦にはなりたくない。

しかし、「じゃあどうすればいい」という質問を満足する答を持っているわけでもない。

一つヒントになるのは、世界も自分も定数ではない、ということだ。偶数しか場所がない世界が、奇数を欲するように変わることだってあるのだ。私にとって一番の驚きは、20代で妻子を得たこと。もし世界も私も変わらなかったのだしたら、それは「数学的にありえない」はずだったのだ。

どちらがどう変わった結果、そのありえないはずのことが起こったのか、私には未だにわからない。それでも一つ言えるのは、そのありえないはずのことが起こったのは、私の諦めが悪かったからだ。

しかし、「だから君も諦めるな」と言えるほど私は君のことも世の中のことも知らない。私が居場所を見つけたことは、君が居場所を見つけられることの保証にはならない。少なくとも数学的には。それでも、「あんな奴でもうまくいったんだから、俺にうまくやれないはずはない」という気持ちを抱く人はゼロではない、はずだ。だからこんなことを書いている。

Dan the Being Not Even Odd