いや、世代論以前の問題です。少なくとも「人類は衰退しました」に限って言えば。

アニメーターとライトノベルのイラストレーターの主力は二世代違う : ARTIFACT ―人工事実―
ライトノベル原作のアニメを見ていると、キャラクターデザインが元のイラストのテイストを失っていて、うまく落とし込まれていない感じがよくするのだが、考えてみれば、二世代違っていたら、絵のセンスが違うのも当然か。

書評には書きそびれたのだけど、はっきり言って「人類は衰退しました」のイラストは、作品のあらすじは読んでいても(あるいは編集者から聞かされていても)、作品をきちんと読んだ上で描いたのでない事ははっきりとわかる。

「人類は衰退しました」に描写される、主人公の肉体的特徴は少ない。が、それでも

  • 女性
  • 学校を卒業したての「新社会人」--といっても社会がすでに衰退しているけど
  • 背が高い
  • 眉が太い

という特徴は明示的に書いてある。背の高さはとにかく、この最後の「眉が太い」は主人公の祖父の台詞として一回しか登場しないのだけど、きちんと読めば読み落とすことはない。しかし、イラストの主人公の眉は見えないほど細いのだ。ぶっとい髪(というのかあの独特の髪の描き方)から、もうしわけなさそうにうっすら透けて見える程度なのだ。

イラストレーターの山崎透は、決して下手ではないし、上手なだけの没個性的な絵でもない。一目見れば、このイラストレーターだというのがわかる絵だ。それだけに、「作品を読んでいない」ことも余計明らかで、それが文字通り画竜点睛を欠くことになって大変残念だ。

日本の小説は、これまでずいぶんにイラストレーターに恵まれていたと思う。星新一真鍋博そして和田誠(このあたりは星新一 一〇〇一話をつくった人も参照のこと)はもう切っても切れない関係だし、小松左京のぶっとい作品にはやはり生頼範義の骨太の絵が相応しいし、筒井康隆の奇想天外なエッセイを絵にするのはやっぱり山藤章二でなきゃ、というぐらい、作品と密接な関係にあった。海外の作品でさえ、それに日本のイラストレーターの絵がつくとここまで見栄えが変わるのかというものも少なくない。加藤直之がいなかったら、私がこれほどSFを読むようになったか多いに疑問だ。このあたりの蜜月関係は、少なくとも葛飾北斎曲亭馬琴あたりまで遡れる日本の伝統のはずだったのだが。

これらの絵は、単なる絵ではなくイラストレーション(illustration)だ。illustrateという言葉を辞書で引いて欲しい。それは単に文章に挿絵することではないのだ。作品をより分かりやすく、より活力のあるものにすること、それがイラストレーションだ。

だから、イラストレーターというのは、絵師である以前に第一号読者なのだ。その読者が作品を読んでなくてどうするのだ。

涼宮ハルヒ」シリーズのいとうのいぢのイラストには、複雑な心境を抱く。たしかにうまいと思う。この絵がなければ、これだけのヒットになったか多いに疑問だ。しかし同シリーズの表紙にキャラクターは出て来ても、その礎となった作品があるかというと多いに疑問だ。同シリーズは立派なSFでもあるのだが(好き嫌いはさておき)、それを表紙から感じることは出来ない。さらに好みを言わせていただければ、ハルヒを明るく描きすぎている(売れ行きにはポジティブなのだろうけど)。彼女のどこが憂鬱なんだい?

「ラノベ」に関しては、画力よりも、「絵師化」してしまったことが問題なのではないだろうか。絵師なら絵師で構わない。北斎だって馬琴のもとを去ったのだから。しかし、それをイラストと呼ぶのは勘弁していただけないだろうか。

Dan the Disappointed Reader