私自身、ものごとを決めるときには世代論にはほとんど重きをおかないのだけど、しかしなぜ世代論が発生するかは理解できる。
批評には世代論がついてまわる
- 映画批評を生産/消費している層とは、ヌーベルバーグの作家たちが旺盛に作品を発表していた時期に学生であった人たちなのである。
- マンガ批評を生産/消費している層とは、ニューウェーブの作家たちが作品を発表し始めていた時期に学生であった人たちなのである。
- アニメ批評を生産/消費している層とは、ヤマトかガンダムかエヴァがブームだった時期に思春期だった人たちなのである。
- 美少女ゲーム批評を生産/消費している層とは、Leaf・Keyがブレイクする時期に思春期だった人たちなのである。
例えば明治維新の頃、世代論はほとんど話題にならなかったはずだ。その代わり、話題になっていたのは、どの藩の出身だったかの「出自論」だったはず。それが年を経るごとに出自論が引っ込み、代わりに世代論が台頭してきているように思える。
それはなぜか?「何に育まれて来たか」ということの地域差が縮小する代わりに、時代差が拡大してきたからだ。かつては親を育んで来た環境が、子の世代になって劇的に変わるということはほとんどありえなかった。その代わり、親どおしの環境は大いに違った。同い年の海彦と山彦の違いは、団塊世代と団塊ジュニアの違いとは比較にならないほど異なっていたのではないか。
世代論には、当然反世代論もある。「ケータイ世代」という言葉を例えば作ったとして、「私の母の方がよっぽどケータイを使いこなしている」というような反論だ。実際そうだろう。Mixiのコミュニティを見ても2chのスレを見ても、そこにいる世代は以外とばらけている。むしろ団地やマンションの世代分布の方が強く偏っているように見えるぐらいだ。
しかし、世代論も反世代論も、「どの水で育ったか」という点においては実は共通しているのだ。
ここで予言じみたことを言っておこう。今後は、世代論も役立たなくなる。世代論は1995年あたりまでは役立ち度が上がっていて、現在もなおマーケティングの基礎として使われてはいるものの、その後はむしろ急速に人々を分類する手法としての精度が落ちて来ている。かといって出自論が復活するかというとそうもならない。格差社会との絡みでその復活を喧伝する人々もぼちぼち出て来ているが、彼らはネットの存在を過小評価している。体の住まいと心の住まいがこれだけ乖離した時代というのはいまだかつてないのだ。
それでは何論が台頭するかというと、それはおそらく「コミュ論」といった感じになるだろう。「コミュニティ」ではなく「コミュ」と略記したのは、「キャラ」と「キャラクター」を峻別する「テヅカ・イズ・デッド」に倣った。「コミュニティ」というのは、物理的な立脚点をも含んだ概念だが、「コミュ」というのはもっと心理的なものだ。「おとなりさん」は同一コミュニティだが同一コミュではなく、Mixiのコミュニティや2chのスレは同一コミュニティではないが同一コミュ、というわけである。
だからなんだんだ、と言われても困るが、世代論がマーケティングで役立ったように、コミュ論もまたマーケティングに役立つ公算は低くない。今から鼻を研いでおいてもいいかも知れない。
Dan the 0th 69er
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