広義の職人ではあるけど狭義の職人ではないもの、それが百姓。「ひゃくせい」の方でなくて「ひゃくしょう」の方。

「手を動かす」ことによって何かを得る、という点においては、職人にも百姓にも違いはないのだけれども、この二者には一つ重要な違いがある。状況に対して、どこまで手を下せるかだ。

職人の場合、手の下し方が上手であれば上手であるほど、「出来上がり」の質量がよくなる。職人のドグマは、手を動かすことによって状況を改善していくこと。

Life is beautiful: ブロガーをレンガ職人にたとえてみる
私にとって、「ブログのエントリーを書く」という作業は、自分の頭の中に他の考えと混ざり合って混沌(こんとん)としている粘土状のアイデアや考えを、ブログエントリーという型に流し込んでから軽く焼きを入れてブロック状のレンガにして積み上げて行く作業のようなものである。

satoshiさんは、その意味ではまさに職人だ。

それに対して、百姓というのは、「出来上がり」の質量に対して最も重要な条件に対して文字通り手が出せない。おてんとさまには誰も勝てないのだ。にも関わらず、手を出した結果が出来上がりに反映されないかというと、それもまた違う。全てをコントロールすることは出来ない。しかし手を出した結果は何らかの形で確実に未来に反映される。こういう状態において何かをすることを、養老孟司は「手を入れる」と表現している。

私にとってblogosphereはむしろ田畑のような場所だ。日照りもイナゴも一人の力だけではいかんともしがたい。しかし土をおこし、種を播き、草を取り、そして秋を待てば、何らかの実りが確実に得られるのだ。

もちろん、そこにおいても職人的作業は必要だ。作物が文字通りの果実であればそのままかじることも可能だが、穀物は粉にしてパンにするなり、飯にして炊くなりしなければ口に入れることもままならない。しかしそうした作業は「手入れ」よりも「読みやすい」ので、機械的に出来る。それもまた楽しい作業であるが、面白さで言ったら「手入れ」が勝る。

わが田圃にようこそ。

Dan the Farmer Called Blogger