突っ込みどころが多すぎて、1 entryでは論評しきれないのだけど、まずはこちら。
若者はなぜうまく働けないのか? (内田樹の研究室)お題は「どうして若者はうまく働くことができないのか?」
まずはこのお題が正しいかを吟味してみる。
最近、いろいろな勉強会や合宿にお呼ばれされることが多い。彼らは20歳前半から30歳になったかならないかぐらい。どう解釈しても私より一世代以上若い。
そんな彼らを見ていて感嘆せざるを得ないのが、仕事が実に安い、速い、そしてうまいということ。私が彼らぐらいの年齢のときにもそういう人はいたし、僭越ながら私自身そういう風に受け取られていたようにも思うのだけど、少なくとも私が彼らの年齢のとき、これほど多くの安くて速くてうまい「若者」は存在しなかった。「やすい」はとにかく、彼らと一緒に何かするだけでこちらまでより速くうまくなるような気がするから不思議だ。
「やすい」に関しては、解説が必要だろう。いや、言い直した方がいい。「気前がいい」、と。特にそれを感じるのはニコニコ動画を見ている時。ここの「才能の無駄遣い」タグはほんとすごくて、よくあれだけの作品をあれだけの時間で作ってしまうなあと感嘆すること然り。少なくとも彼らの「速さ」と「うまさ」は「おっさんたち」も認めざるを得ないのではないか。
「しかし、『気前がいい』はありえない」という意見もあるだろう。「ほとんどオリジナル作品がないではないか。それを勝手にパクってイジって楽しんでいることのどこが気前がいいのだ」、と。
確かに100%オリジナル作品というのは少ない。一目見て原典が明らかなものばかりだ。しかし100%オリジナルでないのは、古典の演奏も同様だ。オリジナリティのみに価値があるのであれば、名演奏家も名編曲家もありえない。多かれ少なかれ「パクリ」が混じるのは、著作権保護団体に厳重に保護された作品とて同様である。
私が彼らを見て「気前がいい」と思うのは、彼らがひたすら楽しむことに徹していて、名前を売るという欲すら見られないことだ。彼らの作品はたしかに「原材料」こそ有名な作品だったりするが、その料理の仕方はオリジナルとしか言えないものも多い。そのまま「売り物」になるだけのクォリティの作品だって少なくない。動画だけではない。「弾幕」の打ち方だってそうだ。
しかしそこにおいては、「誰がその動画を作ったか」「誰がその弾幕を打ったか」という問いはない。作った者もそれを問わないし、見た者もそれを気にしない。これは
若者はなぜうまく働けないのか? (内田樹の研究室)労働集団をともにするひとの笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間
の対局にあるのではないか。
むしろ私には「昨今の若者」たちが、「いい仕事をすること」「いい汗をかくこと」に対しては貪欲でも、「それに対する代価を要求し、その権益を確保することにはさほど興味がない」ように見受けられる。字幕.inの中の人なんてまさにそうだ。とりあえずの生活費を確保したら、あとはもってけセーラー服と言わんがばかり。むしろ「オレオレ」とばかりに所有権に敏感で、権益確保に旺盛なのは、「おじさんおばさん」にこそ多く見て取れるのだが。
それにしても、より多く持っている者がさらに持とうとすることに懸命で、自分の持ち物などほとんど持っていない者が「あげる」ことに懸命なのは何故なのだろうか。今後少しずつこの謎について考えてみたい。
私としては、そういう彼らに、どんな形であれ役立つと思われる方が、「おじさんおばさん」達にそう思われるよりずっと嬉しく楽しいことではある。どうせなら、過去ではなく未来から仕事を請われる方がいいではないか。
とある合宿にて
Dan the Older One
人には様々な面がある。若者に限らず、おじさんについても。
意外な趣味を持っていたり、ボランティアに精を出していたり、家族の介護で忙しかったり...聞いてみないとわからない側面を持っているものである。
だが、内田氏が論じているのはオンタイムにおける社会性についてである。
プライベートタイムに、ニコニコ動画で、「私が彼らを見て「気前がいい」と思うのは、彼らがひたすら楽しむことに徹していて、名前を売るという欲すら見られない」かどうかというのは、内田氏の文章を持ち出して比較するにはやはりズレていると言わざるを得ないのではないだろうか。