ノワール。

本の虫として少しは知られるようになった私だが、確かに偏りはある。積極的に読むのはフィクションよりノンフィクションの方だし、同じフィクションでも現代が舞台になっているものより未来や過去が舞台になっているものが多い。だから旅の道連れには、ふだん読まない本を積極的に選ぶようにしている。本書も、キオスクで買ったものだ。

最高の旅の道連れであった。文句があるとしたら、860ページもあるので左手だけで読めないことぐらいだ(私が文庫を読む時には、たいてい片手だけでページをたぐる)。

本書「白夜行」は、私がはじめて読んだ東野圭吾作品。驚くべき事に、これが最初の一冊なのだ。「容疑者Xの献身」の評判を聞いていたので、いつか読んでみたいとは思っていたのだが、「これだけ売れている作家なら、いつでも読めるだろう」という奇妙な安心感があって、つい後回しにしていた。確かに東野圭吾はすごい。馳星周が嫉妬するのも無理はない。

本書は、雪穂と亮司の19年にわたる「旅」の物語。しかしなぜ彼らが旅を始めたのか、そしてどこに向かっているのかは最後まで明らかにされない。1973年にはじまった「旅」の車窓は、絵画的というよりイラストレーションというのにふさわしい緻密さで描写される。特に「遠景」は「実写」。その時の日本と世界の情勢は、現実の固有名詞そのままに書かれている。「目線」が主人公達に近づくにつれ、固有名詞は実存のものからそのもじりへとゆるやかに代わって行くが、その切り替えは継ぎ目が全く見えないほどリアルだ。

文庫本で860ページにわたって活写される情景に、しかし主人公達が描写されることはない。いや、主人公達にも台詞はあるし、何をしたかは設計図的正確さで地の文に記載されている。しかし、主人公たちの内面は、一ミリも描写されることがない。あたかもそこだめマスキングテープをかけてエアブラシで描かれた絵画のように。描かないことによって描く。なんという技術だろう。

考えれば考えるほど、この主人公を描かないことによって描くという手法はすごく思えてくる。小説に限らず、現在のフィクションにおいて「キャラクター」というのは、プロットや文体をも上回る重要な概念だ。いいキャラクターを得れば、あとはまわりが勝手に動き出す。キャラクターを生み出すまでは辛い道のりでも、一端生まれてしまえば、文字通り老後まで面倒を見てくれる親孝行な娘や息子達。

その逆をやればすごくなることまでは、物語読みであれば誰でも思いつくだろう。しかしそれを作品にまで昇華できるのは、まさに名人の技。本作品の他に思いつく例と言えば、宮部みゆきの「火車」ぐらいしかない。しかし「火車」において、この技法で描かれるのは「主犯」ではあっても「主人公」とはいいがたいように思う。ますます本書が冴えてくる。

それでも、私の読み方が悪かったのか、雪穂の描写には納得が行っても、亮司の描写には納得が行かない。雪穂が本当の姿を誰にも--読者にさえ--見せないことに納得が行っても、亮司が今も暗いダクトの中を徘徊しているのはなぜなのだろう。

本読みであれば、いつか避けては通れない一傑作。それにしてもうれしいではないか。これだけ読んでもまだ読むべき作品があり、まだ読むべき作家がいるとは。日本語と出会ってから僕の地獄に作品は絶えない。

Dan the Bookworm