献本御礼。

しかし私が適切な献本対象だったかどうかは、疑問が残るところかも知れない。

本書、「名づけえぬものに触れて」は、芥川賞作家柳美里のblog、La Valse de Miriを書籍化したもの。ただし、本書の元となったblogは現在すでに閉鎖されている。要するに、かつてそこに書かれていたものを読むには、丹念にキャッシュを当たるか、本書を読むしかないわけだ。

blog本を出すごとに、本に書かれた部分を削除していしまうというのは、充分な数のファンがいる作家にとっては案外いい戦略かも知れない。DVDが出てから削除リクエストを出すという某アニメにも通じるやり方か。個人的には気に食わない手法ではあるが、売文の性格を考えれば、私としてはそれを否定できない。もっともそこまで「戦略的」に、該当blogを閉鎖したのかは本書からも現在柳が運営中のサイトからも読み取れなかったが。[追記参照]

そう、「気に食わないけど否定しない」。それが私が柳美里に対してとっておきたい態度。この人にタグを張るとしたら、[痛女][愛情の無駄遣い][私怨の有効活用]の三つだろうか。

まず[痛女]、実はこれ、[かわいい]に匹敵するモテ属性である。不幸な女は、まさに不幸であることによって男を、それも「腕に自信のある]男を呼び寄せる。「ボクが守ってあげたい」というわけである。正直なところ、私もこの手の女性に引き寄せられる性向があるのを自覚している。

しかし、問題はその後だ。彼女はそうして差し伸べられた手を引っ張るばかりで、自ら手を差し伸べようとはしない。少なくとも、本書からも作品からも、そうでないということを読み取ることが出来なかった。それがますます彼女を不幸にし、それがますます人--男に限らない--を呼び寄せ、そして彼女はそれを文字にして糧を得る。生き物にたとえれば、まさに蟻地獄。

かわいそうな人だ。しかし何かをしてあげようという気にはなれない。なぜなら彼女は痛い自分に酔いしれている不幸中毒だ。こういったことは、人がいくら手を差し伸べても無駄だ。自分でなんとかするしかない。そして彼女はそれにおそらく理性では気がついているのだろうけど、感性はそれを見事に無視している。敬して遠ざけるのが、節度ある大人の態度というものだろう。

彼女が知るべきは、自らを助くために人に与えるということ。それがわからぬ限り、私が彼女を評価することは、ない。母になるというのはその絶好の機会だったはずだが、少なくとも本書現在、まだ彼女は自分に酔ったままのように見える。まあ見事な酔いっぷりなので、金まで出してそれを見学したいという人が少なくないのはわからぬでもないのだけど、それが彼女にためになっているかははなはだ疑問。彼女を「いたぶりたい」2ちゃんねらーもそれに気がついた方がいい。それは文字通りの「燃料投下」なのだから。

それにしても、読みづらい本である。本書は横書きであるにも関わらず、右から左にページをめくる本である。どういうことかというと、縦にめくるのである。blogの体裁をそのままにするためにこうした装丁にしたのだろうが、はっきり言って読みにくいだけである。blogの閉鎖も含めて、ファンが金を出してくれるなら何をしてもかまわないとでも言うのであろうか。内容はとにかく、体裁に関しては今年のワースト1である。

それでも、痛い思いを共感したければ、どうぞ。そういったものなら本書にはたくさん詰まっている。私の趣味ではないが。

Dan the Passer-by

追記:本書の元となったblogのarchiveは、以下に存在する模様。

コメント欄の""さん、ありがとうございます。

蛇足ですが、私が本書評を書いた段階で、www.yu-miri.netは落ちていた様子。本書出版によるアクセス過多が原因?