文庫化されたので買ってみた。大変な力作。

しかし、その手法に大変な徒労感を感じる。

本書、「戦闘美少女の精神分析」は、オタク精神医、斉藤環が、サイボーグ009の003から、新世紀エヴァンゲリオンの綾波やアスカに至るまで、日本発のフィクションを席巻している戦闘美少女たちを精神分析したもの。本書は2000年4月に刊行されたので、21世紀の戦闘美少女に対する考察はないが、今読んでも、というより今読んでこそ、「戦闘美少女」という目のつけどころのすごさがわかる一冊。

だからこそ、徒労感も強い。なぜなら、戦闘美少女のことを知りたかったら、戦闘美少女という「将」を正面から射るよりも、その「馬」である彼女たちの「よりしろ」、すなわちオタクたちを射た方が手っ取り早いからだ。そしてその方が、著者も読者も、早く結論に達することができる。

その斉藤が出した結論が、「戦闘美少女 = ファリック・ガール」というものだ。ファリックとは、ファルス、すなわち陽根のことだ。もちろん、ここでいうファルスとは、単なる性器を意味しない。「ほとばしる熱いパトスで思い出を裏切る」もの、すなわち暴力の象徴のことである。

ここまでの分析は、私も同意する。というのか私も同じような考えを思い立って、「それでは精神医はどう思っているか」という「セカンドオピニオン」が欲しくて本書を手に入れてみたら、「やはりそうか」と納得することが出来た。

しかし、斉藤は、なぜかそこで分析を止めている。一番単純にして重要な質問を避けている、いや、「こわい考えになる」のを避けている。

戦闘美少女たちは、誰のファルスか。

実は、斉藤自身は正解にきちんとたどり着いている。いや、ほぼたどり着いている。

p. 323
ファリック・ガールもまた、しばしば愛する少年(無力で気が弱い、去勢された存在)のために戦いはしなかったか。[イタリック化は引用者]

このしばしば愛する少年とは誰のことか?

読者のことである。視聴者のことである。オタクのことである。

読者がフィクションをリアルと感じるには、その中のキャラクターに感情移入する必要がある。その感情移入の対象は、デフォルトでは主人公だ。だから戦闘美少女以前の主人公は、自ら戦う、漢っぽい男だった。昔のジュブナイルを読むとよくわかる。クラッシャージョーにしろキマイラシリーズにしろ、主人公は自ら暴力--暴力という言葉に語弊があるなら単に力--をふるうものであり、女性は登場するが、彼女たちは普通に女性としての役割を期待されている。戦闘もするが、それは主人公とともに戦うといった、オオカミの妻のような役割で、ファリックなところはほとんどない。

これが、ラノベや「テヅカ・イズ・デッド」で言うところの「ガンガン系」の漫画だと、ファリックな男主人公はほぼ絶滅危惧種となっている。作品の中で「最も凶暴」、すなわち「最も強い暴力」を所有しているのは、主人公ではなく主人公の彼女だ。ハルヒにしてもちせにしてもシャナにしてもラフィールにしても、今や「男の子が好んで読むフィクション」の世界では、剣を振るうのはカレじゃなくてカノジョの仕事なのだ。

なぜ、そうなったのだろうか。

なぜ、フィクションの世界なのに、読者たちは♂の主人公に直接暴力(的妄想)を託すのではなく、そのカノジョたちに暴力を託すようになったのか?

現実世界における男子による暴力の封殺が、ほぼ完成の域にまで達したからではないか。

男性の暴力の封殺というのは、世界的な傾向であるが、特に日本において著しいように思う。同じ暴力をふるうのでも、男性による暴力に対する社会的圧力の方が女性のそれより遥かに厳しく、そしてその差は年々広がっているように思う。女性専用車両なんて、その極北であろう。

その結果、どうなったか。

もはやフィクションの中でさえ、「漢」はアンリアルになってしまったのだ。

ここで暴力という言葉を再定義しておきたい。ここでいう暴力は、「痛めつける力」ではなく、「世界を拡げる」あるいは「世界を押し戻す」力のことだ。知力も体力も、その点においては変わらない。ここで言う暴力は、だから否定的、破壊的な意味ばかりではく、肯定的、建設的な意味もある。実際ヒトがこの星でデカイ面をできるようになったのは、「暴力の有効活用」に成功したからに他ならない。

しかし、この力を有効活用するには、世界はあまりに狭くなってしまった。今もなお暴力が有効活用できる世界はあるけど、それが許される人数は年々減少している。暴力は世界的にだぶついており、そして日本では特にだぶついているのだ。

こういった状況で、何が起こるか。いや、こういった世界をより安定にするには、何をどうしたらよいか。

各個人の「暴力」力の弱化を、世界をあげて行うようになる。

実際、男性の暴力という毒は、年々ゆっくりとではあるが確実に下がっている。私の父は母にも私にも、肉体的にも精神的にも暴力を振るっていたが、子供のころは他の子がうらやましいと思っていた私も、長じて他の人に話を聞くと、彼だけがずばぬけて暴力的とは言いがたいと結論せざるを得なかった(それでも平均より上だとも思うが)。これが私の世代ともなると、妻子の暴力をふるうというのは、考えただけでも孫悟空が緊箍児(きんこじ;頭のわっか)を締め付けられるような気分にさせられる。実際私は女性を殴ったことは物心ついてから一度もない(少なくとも覚えていない)。殴られたことは何度もあるし、さされかかったこともあるし、それどころか銃口を向けられたことさえあるのだけど。女性に対する暴力というのは、第一級、例外なしの禁則事項なのである。

そして私よりも下の世代ともなると、物理的のみならず心理的な暴力に対しても緊箍児をはめられているように見受けら、そして緊箍児はバージョンが上がるごとに「しまる」呪文が増えているように見受けられる。「だめんず・うぉーかー」などを読めば、緊箍児がはずれちゃった人も少なからずいるようだけど、社会全体を見渡すと、「刀狩り」は着実に進行しているように見受けられる。

ここまで書けば、もうお分かりだろう。

なぜ、戦闘美少女なのか。

彼女たちは、暴力を免責されているからだ。なぜ暴力を免責されているか?ドクター秩父山曰く、「かわいいから許す」である。そう。彼女たちはかわいく、すなわち暴力の主体としてはもっともほどとおいところにいるように見えるからこそ、暴力を免責されているのだ。

このことに最初に気づいたのは、誰だろうか。おそらく一人ではないが、もっとも早い時期に、もっとも効果的にそれを作品に活用したのは高橋留美子ではないだろうか。しかも、確信犯というより、描いているうちにそのことに気がついたのではないか。「うる星やつら」のしのぶは、最初はふつうの女の子だった。それがラムちゃんをはじめとする宇宙少女たちにもまれるうちに、いつの魔に机投げができるようになっていた。絵が安定することには、あたるが追っかけ回す少女たちは、すべてガチならあたるを瞬殺できる戦闘美少女になっていた。厳密には面堂妹だけがふつうの少女だが、彼女も財力という暴力も加味すれば戦闘美少女なので例外はゼロである。

それでも高橋留美子がやさしいと同時に恐ろしいのは、最後にあたるに勝ちを譲ったこと。諸星あたるから漢を奪わなかったこと。しかし、それは「武士の情け」であることは、きちんと読んだ読者であれば気づかずにいられない諸星あたるは、その意味で日本の少年向けフィクション界最後の漢だったのではないか。

もちろん、未だに「従来型」の主人公は、青年誌を見ると少なくないのは本宮ひろ志を上げるまでもなく事実だ。しかし、従来型の主人公で満足するのは、そのほとんどがおっさんでもある。

かくして漢は去り、戦闘美少女が降臨したというわけだ。

しかし、男の子たちは決して去勢されたわけではないのだ。弱毒化はなされても、無毒化まではされていないのだ。その方法があるにも関わらずそうしていないのは、暴力が有効活用された時のうまみを社会が忘れていないことを証拠かも知れない。自分暴力を向けられるのはごめんだが、自分のために暴力を使うのはためらわないで欲しいというのが、世の、特に女性たちの本音ではないか。

そうした、弱毒化された、しかし無毒化されてはいない男の子たちが、戦闘美少女にファルスを託した後、本来の主人公に何を求めるか。

悲しいことに、それでも彼らが求めているのは女になることでも、宦官になることでもなく、男になることである。戦闘美少女の彼氏である物語の主人公は、非モテではく絶モテである。n角関係でも、主人公1に対し戦闘美少女n-1がデフォルト。しかし困ったことに、戦闘美少女にファルスを託さないとリアルを感じ取れないほどリアリティチェックが厳しい現在の読者は、その状態に対しても納得の行く説明を求める。もてる男の子には、わけがあるのだ。

そしてそのわけ、少なくとも「読者たちにとって納得のいくわけ」とは何か?

女の子に対して、命を惜しまないこと。しかし、剣は彼女に渡してしまったので、盾としてふるまうこと。

この公式、戦闘美少女が存在する作品は、シリアスであれギャグであれ、例外なくあてはまる。その世界において、主人公がカノジョたちをかばって傷つくどころか死ぬのも当たり前。それどころかはじめから主人公が死んでいたり、主人公が死ぬところから話がはじまることももはや普通で、あげくのはてに愛情表現として主人公を踏んで縛って叩いて蹴ってじらして吊るして斬って殴って嬲って刺して晒して垂らして抱いて抱かれて閉じ込めて泣いて笑って殺したりするものまである。いくら魔法の擬音で元通りとはいえ、これくらいふんだりけったりでないと、現代の男の子たちは主人公に感情移入できないのだ。ドMというのではなく、むしろ激辛好きというのに近い。

日本はこのトレンドで世界の最先端を走っているように見受けられるが、このトレンドが世界的であることは外しようがないと思う。[暴力の有効活用]が可能な場は今後ますます減り、それに伴って全く同じ暴力がより多くの[暴力の無駄遣い]タグを集めるのは、間違いないのだから。John McClaneのように、敵にも男女同権というのは言語道断になっていくのだろう。

この先どうなるのかは知力という暴力が不足気味の私には知る由もないが、これだけははっきりしていると思う。

男は痛いよ。

Dan the Phallic Blogger