共感するが同意は全く出来ない。
My Life Between Silicon Valley and Japan - 取り返しはつかない新潮9月号に掲載された養老孟司「追悼河合隼雄 取り返しはつかない」である。
もったいないなあ。この世間は本当にもったいない人の使い方をする。
ということは、 河合隼雄は世間に使われる程度の人だったということになる。申し訳ないがこういうことは 養老孟司にだけには言われたくない。
なぜなら、彼は「生きた患者」から逃げてきた人だからだ。そのことは著書にいくらでも書いてある。そのこと自体は構わないし、「死体」に逃げたからこそ、バカの壁を見つけることも出来たのだろう。
だからこそ、「逃げなかった人」にとやかく言う資格はない。残った者を誹謗しないこと。これは逃げた者が残った者に対して負う唯一の、それゆえにそれが誰であれ看過することができないルールではないか。
この世間で好きな仕事をしようと思ったら、必要なことはするしかないが、義理は欠くしかないということである。司馬遼太郎は「坂の上の雲」を書いている間、おそらく十年間ほど、大阪の街を顔を上げて歩けなかったと書いていた。
司馬遼太郎は、よくわかっていたのである。自分もまた「逃げた者」であるということを。そして義理と著作を天秤にかけ、著作を取った以上不義理を恥じるという礼節を選んだのである。
河合さんの訃報を聞いて、私はもっとワガママをしようと思った。
ワガママはいい。恥を知れ。それがワガママの代価ではないか。
それともバカの壁が見える代償が恥が見えないということなのだろうか。恥を知るというのと、卑屈になるというのは違うはずなのではないか。
誰かの偉大さを示すのに、その周辺を卑下するというのは有効ではあるがそれゆえ実に恥ずかしいレトリックだ。それは河合隼雄が最も嫌うタイプのテクニックではないのか。ましてや河合隼雄は、「世間」のような形で人々を十把一絡げに扱うことに対してはっきりと、しかし洒脱に異を唱えた人でもある。彼は、最後の最後まで「逃がし屋」だった。
私はなぜそういう人が文化庁長官のような「かっこわるい、逃げ場のない」仕事を受けたのかの理由は皆目見当がつかない。おそらくそうした方がそうでないより一人でも多くの人を「逃す」ことが出来ると判断したのだろう。
だからこそ、それを選択した、というよりそこから逃げなかったことには敬意を払わずにはいられない。そういう人がいてくれるからこそ、逃げるという選択肢が別の誰かに与えられるのだから。
私自身、河合隼雄の著作のおかげで「逃げること」が出来た一人だ。今思えば、それほど深い穴でもなかったし、他の人でも「逃すこと」が出来たとも思うけれども、それでもこの人に助けられたことがあるということは変わらない。
ありがとうございました。
Dan the Runner-away
「私は数学を愛していたんですが、数学のほうでは私を愛してくれなかったんですわ」
という冗句を公演で言うてはったですな、河合先生。