夏です。ヌケてない男たちが、目のやり場に困る夏です。

pal-9999の日記 - pal-9999よりIをこめて皆様に残暑見舞い申し上げます
今の僕はこんな感じです。

暑中見舞い代わりに紹介。

本書「感じない男」は、「感じない」男であることを自分に見いだした著者が、自らを観察することで男のセクシャリティはなにかを考察していく本。あくまで一人称で書かれた本であり、この本を読む限り私自身は「感じない男」ではないのだけど、それだけに他の男がわかって、というより他の男も女と同じぐらいわかっていないことがわかった、さまざまな意味で目からウロコというか目が一皮剥けた一冊。

目次 - 筑摩書房 感じない男 / 森岡 正博 著より
  • 第1章 ミニスカートさえあれば生身の女はいらない!?
  • 第2章 「男の不感症」に目を背ける男たち
  • 第3章 私はなぜ制服に惹かれるのか
  • 第4章 ロリコン男の心理に分け入る
  • 第5章 脱「感じない男」に向けて
  • 特に具象面として、ミニスカートとロリコンに関する考察は、私にはないけれども、多くの男にありそうだということで多いに参考になった。単に生足がよりよく見えるからミニスカートがいいのではなく、単に若い女の子がいいからロリコンというわけではなく、そしてそれにはキモいけれども肝となる理由があるのだというのはよくわかった。

    そして抽象面。あるいは「感じない」男の感じないとは何かというのは、確かに読めば納得である。

    感じないとはなにか。ずばり、オーガズムを得ない、女性で言うところの感じないと同じである。そうすると「男は簡単に射精するじゃないか」という答えが返ってきそうだが、これが全ての誤解の母だというのが著者の主張だ。

    では、逆に考えてみて、不感症にかかっていない男の射精とはどういう体験なのだろうか。もし射精が「排泄の快感」以上のものであり、射精したあとには、満たされたような至福感が全身を包み込み、その余韻が長く残り、けっして空虚な感じが襲ってきたりしないのであれば、それは「男の不感症」ではないと言ってよいと思う。しかし、私の射精はそのようなものではない。

    以上に納得する男性は多いのではないか。

    それでは、著者にとっての射精というのはいったい何であろうか。大小便と同じ、排泄、すなわち「汚れを捨てる」行為である。これらにも確かに快感はあるし、特に便秘後の快便を至福に例えることは多くのフィクションに見られる(私のおすすめは「えの素」)が、しかし「その余韻が長く残り」とは行かない。それは、終わったあとはそれをさっきまでしていたことも忘れたくなる痛い行為なのである。

    そこから、著者は「男であるが故に、汚れている私」を発見する。なぜ著者がロリコン、すなわち二次性徴間もない少女に情欲するのか、それはそこまで「戻れば」、「まだ汚れていない私」にまで戻れるからだ、と自己分析する。

    p. 139
    すなわち、私の心の中にあったのは、少女の姿をした「もうひとりの私」と性交することによって、私自身をもう一度、誰の手も介さず産み直したいという欲望だったのである。

    もしかして、らき☆すたもこの線で考察した方がよかったかも知れない。それであれば、女子校でもないのに男子生徒が白石みのる以外に出てこないことも説明がつく。

    ただし申し訳ないことに、以上は著者の自省から得られた結論であり、多くの男性が「おれもそうだ」というところまではわかっても、私としては実感は出来ない。もう少し正確にいうと今は出来ない。

    なぜなら、私にとって女性とはそういう「汚れた男である私」を汚れたまま受け止めてくれる存在だから。そして、それができる女性にしか私は惹かれなかったから。私は年上の女性としかつきあったことがない--厳密には、全員にそれを尋ねたわけでもないし、名前すらついぞ聞かなかったということもあるので100%の確信をもってそう言えるわけではないのだが、たしかに「キモフェチですが、何か」とたとえ彼氏の前だけとはいえ開き直るには、相応の人生は必要なはずで、そうなれば自然と「上」を探すことになる。

    しかし、世の中を見回してみれば、汚いもの、いや、もっとシンプルに穢れに対しては、女性の方が男性よりずっと耐性があるのだ。看護師はその格好の例だ。男性の看護師もいるが、男女同権が進んだ国においてさえ、女性が圧倒的に多い職業であり、しかもいやいややるにはあまりに高度な知識と技能が要求される職業である。親という「職業」もまたしかり。子育てをしてみれあば、髭と精液こそないけれども、それ以外の汚れというのはすべて一通り体験する。こちらは看護師にも増して女性優位である。

    おそらく「感じない男」の一番悲しい誤解は、「自分が感じないのは自分が汚いからだ」というものだろう。「ヒゲだらけでイカくさいからキモい」というのは、確かに「感じない男」たちが惹かれてやまない少女たちの台詞ではある。

    しかし、女にとっては、これらの「キモ」い点は、「キモカワ」なのである。生まれ変わるより抱いてもらう方がよっぽど楽だというのに気づけば、「感じる」まではあと一歩のような気がする。

    とはいえ、「少女」のまま0x20歳を超えてしまう女性もまた増えてきているようには思う。それゆえに、本書は「男性」の「汚さ」をキモいとしか思えない女性にも読んで欲しい一冊だ。実のところ、「汚い」のは男女とも一緒なのだ。排泄はどちらもするのだし、ましてや女性ともなれば月のものもある。余談であるが、最近では女性にも「女性ゆえの穢れ」に堪え難いという人が散見される。これは生理学上「感じない男」よりもさらに辛いのではないか。

    本書は、傾向の分析が主で、対策までは載っていない。著者自身、まだ感じない自分を克服しきっていないことを告白して本書を結んでいる。懸命な読者であれば、「モヤモヤの正体」に気がついただけも対策をいくつも思いつくだろうが、「それでもやっぱ感じない」という人には「ウンコに学べ!」を薦めておく。そういえば、こちらもちくま新書。たしかに穴があったら一番深く突っ込んでいる本が多いように思う。

    Dan the Dirty, Old, Lucky Man