同感。

らいおんの隠れ家 - ポール・グレアム「もの」
私はあまりに多くのものを持ちすぎている。ほとんどのアメリカ人はそうだ。 実のところ、貧しい人ほど多くの物を持つようだ。

なのだが、このことは、ものに囲まれてはじめて気がつくことでもある。

Graham御大は、イタリアでの生活でこれを発見したようだが、私は実家全焼でこのことを知った。しかし、このことを知っている Grahamにしても、未だ必要以上のものに囲まれて生活しているようだし、私もそれは同様だ。

なぜだろう。

もし、経済活動に関わる誰もが「知足」して、必要なモノを必要なだけ作って買うようになったらどうなるのだろうか。

おそらく、必要なモノを必要なだけ手に入れるだけの収入が手に入らなくなるのではないか。いや、もう少し正確に言うと、そうなってしまうのではないかという恐怖に耐えられないのではないか。

ものの値段が下がるということは、買い手にとってはより少ない額で「知足」することを意味するけれど、売り手にとっては「知足」するためにより多くのものを売らなくてはいけないことを意味する。収入が半分になっても、ものの値段が半分になれば、「豊かさ」は本来変わらないはずだが、しかし我々にとって、収入が減る恐怖というのは物価が安くなるという安心感よりずっと強いのだ。

だから、買い手としては「知足」しているのに、我々はものを懸命に売る。物流を整備して、今まで売れなかったところに売る。広告を打って、今までものを知らない人にも知らせる。そしてそれらの過程で、物流だとか広告だとか、ものを知らせて届ける行程まで売りに出す。

競争が、それに追い打ちをかける。収入が半分でもOKということにあなたが気がついたとする。もしあなたが半分しか作らなかったらどうなるか?収入は半分ではなくゼロになる公算が高い。そうしたとたんライバルがあなたをつぶしにかかるから。

そのことがわかるから、今懸命にものをつくっている人々に、「そんなつくらなくてもいいじゃないですか」とは言いにくい。「あなたは十分持っているからそういえるんですよ」「そんなにもっているならこっちよこしなさい」と言われるのがわかっているからだ。それは事実で、それに返す言葉を私は持っていない。多分Grahamも。

それでも、先進国の若い人は、年寄りよりはこのことをよくわかっているようにも思う。先進国の若者に対する愚痴として、「ハングリー精神が足りない」というのは実は日本だけのことではないのだが、私にはそれはむしろ自然な社会適応に見える。もし「今時の若者」たちが、彼らの親と同じぐらいハングリーだったら、ものはもっとあふれることになっていただろう。

とはいえ、まだものが足りない国や地域の方が多数派だということも忘れるべきではない。それらの場所に住む人々に「知足せよ」というのは寝言もいいところだろう。京都会議での中国代表の「車を二台持っているあなたがたが、我々にはバスにすら乗るなと言うのか?」という台詞に、我々は今のところ返す言葉を持っていない。

しかし、中国やインドすら、「知足」せざるを得ない日はそう遠くないように見える。あと20年といったところか。50年はかからないはずだ。その頃には、世界中でものは供給過剰になっているはずだ。

そうなった時の手本作りを、今からはじめておいても遅くないように見える。今後先進国の役割は、「何がうまく行ったか」、ではなく、「何がうまく行かなかった」「何をやりすぎたか」を発展中の国に伝えることにあるのではないか。

Dan the Overstuffed