で、一体誰が保障するんだい?神?

煩悩是道場 - 頑張ることと、生きていく権利と、お金を稼ぐことは全部異なる
私たちには生まれた瞬間から生きていく権利が保障されています。

保障するのは、「我々」じゃないのか?

主語抜きで、本当に保障されているものに、実は保障はいらない。光速より速いものが存在しないことは、確かに「保障されて」いる。強いて主語を探せば「宇宙」ということになる。「神」という単語を使いたい人もいるだろう。

それでは、「生まれた瞬間から生きていく権利」はどうだろう。「神」か?確かに合州国の独立宣言を見ると、それらは「保障されている」ように見える。

United States Declaration of Independence - Wikipedia, the free encyclopedia
We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

しかし、仮に神がいて、それを保障しているとしても、その実装まで神がやってくれるわけではない。そもそもこの文言のWeの定義は、現在のWeとは明らかに異なっていた。例えばそこに奴隷は入っていなかったのだ。

「生まれた瞬間から」というが、この生まれた瞬間の定義ですら、神の仕事ではなく人の仕事である。それを受精の瞬間にするのか、分娩が完了した後にするのか、人によって定義は異なる。そしてどちらの定義を採用するかは、「保障人」の都合なのだ。この国だけで、年間30万「人」が、「保障人」の都合で「殺されて」いるのはご存じのとおり。

ヒトに限らず哺乳類とって、最初に生きていく権利を保障してくれるのは、母である。まず母があなたを生むことを保障してくれない限り、そんな保障はどこにも存在しないのだ。濡れた障子紙を持った母を止める力は、法には存在しない。法に出来るのはその母を罰するぐらいのことで、抑止力とはなっても強制力にはならないのだ。

おそらくヒトの歴史の大部分は、この「母のみが子の生きていく権利を保障する」というものだったはずだ。当然子が長じれば、その保障は本人まかせ。それに父が加わり、家族が加わり、村が加わり....となるにはかなりの時間がかかったはずだ。そして今、この保障にはヒトが作った最大の共同体である「国」まで加わっているが、「保障するのは自分たち」という原則は何ら変わっていないのだ。

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「働かざる者、食うべからず」なんていうのは嘘っぱちでしかない。

そう。嘘。正解は、「働かざる者、死ぬ」である。「働かざる者、生きるべからず」ですらない。なにしろこれは倫理よりも強い生理で決まっているのだから、「べからず」など必要はないのだ。

勘違いしないでほしい。ここで私が「働く」といっているのは、給料が出る仕事だけではないのだ。赤子にとっては、泣くのが仕事。幼児にとっては、親の手を煩わせるのが仕事。「働く」というのは、「人」が生きていくために必要な「動き」をとるすべてを指すのだ。

それらを指摘した上で、もう一度「保障」の長期傾向を見ると、「保障人」の数や種類が時代ごとに増えていることに気づく。なぜそうなのかといえば、その方が楽に働けるからだろう。しかし、保障人を増やした方が楽だというのは、どこかの独立宣言で言うほど「自明(self-evident)」ではない。なにしろ、それは「自分でとったものを独り占めするな」ということなのだから。しかし、独り占めしていたときに10しかなかった収入が、独り占めをやめて他人の保障をすることで100になったら、「保障料」が50あったとしても手元に残る収入は50、5倍にもなる。

なぜ我々が神の名を出してまで生きていく権利を保障する、正確には「オプション」だったはずの保障を「義務」にまでしたのかといえば、結局その方が、自分の分け前が増えるからなのだ。そしてそれがなぜ「自明」と言っているかといえば、実は自明でもなんでもなく、「まわり」が手間ひまかけてそのことを教えないと納得できないほど自明でないからだ。

このことを勘違いして、本当に権利が保障されていると思い込むと何がおこるか。ソ連は四半世紀かけてそのことを証明してくれた。だれも保障の原資を提供しなくなるのだ。よくもそれで3/4世紀も持ったと思うが、それでも人の一生に満たぬ長さしか持たなかったわけだ。

保障というものが、結局神ではなく人の仕事である以上、「どんな保障を誰に対してどれだけ用意し、そしてその原資を誰が支払うか」というのもまた人が考えるしかない。そして、人とは「我々」のことである。少なくとも、民主主義国では。

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だからこそ、国は憲法に基づいて私たちの「生きる権利」を保証せよ、と主張したい。

以上の主張は、だから私には「神頼み」にしか聞こえない。国が三人称である限り、保障人も常に三人称なのだから。まずは、自分が保障人であることを自覚すべきではないのか。国が三人称ではなく一人称複数であることに気がつくべきではないか。

そうはいうものの、「誰に何を保障すべきか」という点において、この国に限らずどの国も迷走しているように見える。生まれたての赤子が必要とする保障と、寿命間近の老人が必要とする保障は種類も費用も異なる。そして今や前者に対する保障より、後者に対する保障の方が先進国においては手厚いのだ。これは明らかに手段にすぎなかったはずの保障が目的化したことによる弊害なのだが、少子高齢化のおかげで多数決でこれを糾すこともますます難しくなっている。今や民主主義の仕組みそのものが、社会のソ連化の原動力になっているかにすら見える。

しかし、このあたりのことは他のentriesにも書いたし、今後も別のentriesで触れるつもりなので、今は以下を指摘するにとどめよう。

権利を保障してほしかったら、保障料を自ら支払うか、誰かに支払ってもらうしかないのだ、と。

Dan the Insure(r|d)