これを読んで、やたら紹介したくなったので

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ローマ人の物語IV,V
ユリウス・カエサル
塩野七生
Life is beautiful: リーダーに必要とされる感情知性(Emotional Intelligence)
今日のエントリーは、Daniel Goleman という人の書いた”What Makes a Leader?” という論文の要約。

本書「ユリウス・カエサル」は、塩野七生の最高傑作である「ローマ人の物語」全15巻の中のそのまた最高傑作。単行本でも上下二巻、文庫だと六巻(8-13)という大著だが、それだけの価値はある。

何しろ、書かれているのは、一世紀に一度(once in a century)どころか千年に一度(once in a millenium)かどうかというリーダーなのだから。

ガイウス・ユリウス・カエサルが誰かというのは、説明不要だろう。ローマを共和国から帝国にした人だ。このことを持って、彼を民主主義の破壊者とする人は多い。特に民主主義が強くなりだしたここ一世紀半はその論調が目立つ。教科書だけではなく、数多のフィクションもそうだ。スターウォーズの史観なんて、その典型であるし。

しかし、この人がいなかったら、ローマは共和国のまま自滅していたのは確かだろう。それが世界にとってよかったかどうかはわからないが、当時のローマの人々にとって切実だったのは、democratia = 民主主義ではなくではなく pax = 平和だったことは確かだろう。

しかし、この人が「何を」リードしていたかはあまりによく知られていても、それを「どう」リードしていたかはそこまで知られていない。本書に書いてあるのは、まさにそれである。

Life is beautiful: リーダーに必要とされる感情知性(Emotional Intelligence)
Emotional Intelligenceには5つの要素がある。

カエザルがこれら全てを持っていたのは明らかで、イタリアの高校教科書はこれらをもっと素敵な言葉で表現している。

ローマ人の物語 IV 序文
「指導者に求められる資質は、次の五つである。
 知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。
 カエサルだけが、このすべてを持っていた。」

最後の一行は、いくらなんでもカエサルを持ち上げ過ぎだと思うが、しかしカエサルのすごいところはこれらの全てを持っていたこと、ではなく、誰でも同意するこれらの指導者に求められる資質を、誰にも真似できない形で表現したことにある。

その一つの例を、以下に引用してみる。少し長いが、私の日本語力では中略不可能なので、そのまま最初から最後まで抜き出してみる。

ローマ人の物語 V pp. 217-218
 演壇上に姿を現したカエサルは、呼びかけもなく前置きの言葉もなく、いきなり言った。
「何が望みか」
 兵士たちは口々に、退役させてもらいたい、と叫んだ。彼らも、次に待つのが北アフリカの戦場であることは知っている。それにはカエサルが、自分たちを必要としていることも知っていた。それゆえ退役を要求すれば、カエサルとて、一時金とか給料の値上げを約束するとかで、妥協に出てこざるをえないと踏んだのである。もともと彼らには、カエサルが戦いをつづけるかぎり退役する気持ちはなかったのだ。ところが、カエサルから返ってきた答えは次の一句だった。
「退役を許す」
 予期しなかったカエサルの答えに、兵士たちの振りあげていた剣は自然に下に降り、やかましい叫び声も止まった。重い沈黙が支配する兵士たちの上に、カエサルの声だけがひびいた。
「市民諸君(クイリーテス)、諸君の給料もその他の報酬も、すべては約束どおり支払う。ただしそれは、わたしが、わたしに従いてきてくれる他の兵士たちとともに戦闘を終え、凱旋式までともに祝い終わった後で果たす。諸君はその間、どことなり安全な場所で待っていればよい」
 カエサルの子飼い中の子飼いと自負していた第十軍団の兵士たちにとっては、カエサルが自分たちに、市民諸君、と呼びかけたことがすでにショックだった。それまでのカエサルは「戦友諸君(コンミリーテス)」と呼びかけるのが常であったのだ。それが今、もはや退役してカエサルと縁も切れた普通の市民並みの存在になったかのように、「市民諸君」である。カエサルは自分たちを他人あつかいしたと感じた彼らは、従軍拒否もなければ報酬の値上げもない気持ちになっていた。泣き出した兵士たちは、口々に叫んだ。
「兵士にもどしてくれ」
「カエサルの許で闘わせてくれ」
 それらに対してカエサルは、答えもしなかった。これまでは、カエサルの第十軍団ということで肩で風切っていた彼らも意気消沈である。次の戦場となる北アフリカ行きの集結地はシチリア島のマルサラと決まった後も、そこまでの行軍命令は、第十軍団にだけは下らなかった。第十軍団の兵士たちは、集結命令を受けてシチリアに向かう他の軍団の後を、まるで負け犬のように従いて行くしかなかったのである。カエサルからの参戦の許しが出たのは、マルス広場での“団体交渉”の日から数えて、ニカ月近くが過ぎてからだった。
 もちろんのことカエサルは、第十軍団の参戦を、ボーナスもベース・アップもなしで勝ち取った。しかも、嘆願して参戦してもらうのではなく、兵士たちが自ら望んで従うという形で勝ち取ったのである。現代の研究者の一人は書いている。「カエサルは、ヒューマン・コメディの巧みな俳優を演じた」
 古代の史家たちも、このエピソードを紹介する際には異口同音に言う。「カエサルは、ただの一言で兵士たちの気分を逆転させた」

そして、塩野七生はこうとどめを刺す。

「文章は、用いる言葉の選択で決まる」と書いたことのあるカエサルの、面目躍如たるエピソードである。アテネ留学の経験という、学歴ならばカエサルより高学歴であったはずのアントニウスだが、この種の才能は持ち合わせていなかった。

率直に言って、このエピソードを思い出すたび、ビジネススクールとかリーダー研修とか、「学校で学ぶリーダーシップ」というものに空しさを感じずにはいられない。おそらくそういった「クラス化」された教材に真剣に取り組めば、一兵卒が百人隊長になることはできるだろう。元々百人隊長だった人は、大隊長になるのも無理ではない。

しかし、インペラトールは、無理。

とはいえ、インペラトールばかりがリーダーではない。百人隊長は、どんな世界でも過小気味だ。だからビジネススクールのような仕組みが無意味であるとは私も思わない。そして戦闘の勝敗に関しては、優秀な百人隊長が何人いるか、の方がカエサルがいるかいないかより重要なことが多いのだ。

しかし、戦争となったら、勝つのはやっぱりカエサルの方なのではないだろうか。

リーダーまでは育てることが出来る。しかしリーダーのリーダーというのは、生まれるのを待つしかないのだろうか。

あるいは、「リーダーのリーダー」を必要としない社会こそ、目指すべき社会なのだろうか。

それでも、かつてこういうリーダーがいたのだ、という歴史は否定できないし、そして塩野七生が何度も言っているように、今のところリーダーなき組織というのは存在しない以上、肯定的であれ否定的であれ存在を無視することだけは出来ないのだろう。

MBAの教官たちは、カエサルのような、自らの存在価値を笑って否定するような天才をどう扱っているのだろうか。やはりブルータスになるしかないのだろうか。それが気になる。

Dan the Layman