半分同意。

きしだのはてな - 2007-09-10
「車輪の再発明はするな」という言葉で車輪の再実装を阻む行為は、「車輪を実装した」という経験をもたせないようにして、先行者利益を確保するという、孔明の罠なのです。

同意するのは、車輪の再発明のところまで。これは多いに結構。これほど短期間にスキルを上げる方法はそうはない。

ただし、リリースと普及は別。既存の車輪より少なくとも3倍良くないと、薦められない。

車輪には、「あると便利」「あると面白い」という側面がある一方、「ないと困る」の側面もある。「ないと困る」ものをリリース、というよりサポートし続けるのは、実は車輪を(再)発明する以上の手間暇がかかる。その過程で、車輪の多くは淘汰され、ごくわずかが業界標準として生き残る。

このことは、本物の車輪を見てもわかる。ホイールの方は、さまざまなメーカーのものが存在するが、タイヤメーカーはごくわずか。なにしろ自動車メーカーより少ないのだ。F1用に至っては今やブリジストンしか作っていない。理由は簡単。タイヤの方が「基準性能を満たしつつ、市場で勝負できる価格で作る」のが難しいからだ。タイヤメーカーになるだけの覚悟が君にはあるか?

実際のところ、普及した車輪が必ずしもベストでないことはしばしばある。SMTPとかSMTPとかSMTPとか(苦笑)。しかし、それに代わる車輪を提案して普及させるのは、再発明とは比較にならないぐらい難しい。そのこともあって、未だメールに関してSMTPに代わる車輪は不在。Sigh.

とはいえ、ftp → gopher → http のように、比較的「車輪改革」がうまく行ったものもある。これらのものの特徴は、「別の車輪を置き換える」のではなく、「別目的で作った発明」がたまたま車輪としても機能したということが多い。

それはもはや「車輪の再発明」ではなく、「再」抜きの発明である。

車輪の再発明を戒めるのが孔明の罠なら、その車輪をリリースし普及させるのは、その孔明がはまった罠である北伐に相当するのではないか。

Dan the Wheelsmith