人を選ぶ台詞がある。
「何を言ったか」が正しくとも、「誰が言ったか」が正しくなければ正しく聞こえない台詞だ。
この夏最後の出稼ぎツアー (内田樹の研究室)私たちが労働するのは自己実現のためでも、適正な評価を得るためでも、クリエイティヴであるためでもない、生き延びるためである。成人の労働ができるだけ多くの他者に利益を分配することを喜びと感じるような「特異なメンタリティ」を私たちに要求するのは、それが「生き延びるチャンス」の代価だからである。この代価は決して高いものだと私には思われない。
これは、まさにそれにあたる。
なぜこの台詞が先生たちを感動させても、生徒たちをしらけさせるかといえば、失礼ながら内田樹はこの台詞を吐くのにふさわしい人ではない、と見なされているからだ。それが、以下の主張である。
雑種路線でいこう - 自分探しの起源逃げ切りつつある団塊オヤジから説教されるとホント頭くる。というか団塊世代が自分たちの労働観について成長によって希望と手応えを与えられたことに無自覚なまま無責任な若者批判に淫しているから、こうやって崩れつつある社会への信頼を立て直さず「教育の崩壊」(?)*1を拱いているのではないか。
「成人の労働ができるだけ多くの他者に利益を分配することを喜びと感じるような「特異なメンタリティ」を私たちに要求するのは、それが「生き延びるチャンス」の代価だからである」という台詞を正しく語るためには、多くの他者に利益を分配した上で、それを喜びと感じたのだという実例の裏付けが必要なのだ。私は内田先生にそれがない、とまで言うつもりはない。具体的に内田樹という人物が誰に利益を分配したのかということも知らないのだが、それはもしかして奥ゆかしい内田先生ともあれば声高に実例を主張しなかった結果である可能性を否定できない。
しかし、一人称複数、すなわち「私たち」としての団塊の世代にその裏付けが足りないという南さんの行間の主張には禿同する。
さらに、内田先生の主張を見ると、主張として軸が一つ抜けていることに気がつく。
それは、時間軸だ。人生のどの時期に他者から利益を受け取り、そしてどの時期に他者に利益を与えるかということだ。
永続的にそれが成り立つためには、より多く持つ者が、より少なく持つ者に与えなければならない。逆であれば与える者はあっという魔に未来は干上がってしまう。そして、今日本で進行しているのがまさにそれではないかというのが、若者の不安の根源なのである。
ここでいう「多く持つ」は、何も財貨だけではない。経験も、権力も、およそ人に与えることが可能なものは全てそうである。そして、短期的な変動や例外もあるものの、こうした「与えられるもの」は年齢を重ねれば重ねるほど増えて行く。だから「与える」方向は、老から若へと言うのが自然なはずである。
ところが、財貨に限ってもこの国における流れはその逆、若から老になっている。これがまだ老が持たざる者たちというのであれば話はわかるが、財貨に限って言えば彼らは最も持てる者である。にもかかわらず、なぜ彼らにはより多くの社会資本が投入されるのだろうか。納得の行く説明を、若者たちは今も待っている。そして、彼らはそれを聞くまで待つのがいいのかそれとも「先輩」を真似て「後輩」たちにたかるするしかないのか迷っている。「やりがいのある仕事」を求めるのは当然ではないか。少なくとも自活できれば、この問題に関して中立の立場でいられるのだから。政治を動かしてまでたかりモードになるより65536倍はマシである。
私は、団塊の世代の各位に、是非承前の台詞が似合う、見習わずにはいられないような人生の先輩になっていただきたいと本気で思っている。しかし、かっこいい台詞ほどより重い裏付けが必要だというのは、ゆりかごから墓場まで真実だ。美辞麗句は聞き飽きた。失礼、ご高説は確かに承りました。そのご高説に相応しい行動をお待ちしております。
Dan the Giver Made by the Given
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ただし、モルデカイ・シュシャーニ師や内田樹自身の見かけ上の「貧困」は、固定資産税を課されない優良な生産手段を頭の中に持っているために、世の凡人の貧困とはまったく様相が異なる。その区別を曖昧にしている点は批判に値する。