三連休は家族全員風邪でぐったり。そろそろ起きるか....

妻が臨月だ
  1. 名前が常識的に普通じゃない子供&親とは付き合わない。(当て字とか…)
  2. 子供と親の年齢が近い(あきらかに10代で産んでいる)人たちとは付き合わない。
  3. 子供を注意しない(しつけない)親とは付き合わない。

微苦笑。わたしゃこの時点で失格。

ところが親としても子としても、上の発言主よりもよろしくやっている。

なぜか。親というものに対する二つの誤解から、今は目が覚めているからだ。

別に私が賢いわけじゃない。覚ましてくれたのは、子供たち。この二つは、子供を得てはじめて気づくタイプの誤解でもあるのだから。しかし他の多くのコロンブスの卵と同様、いったん気がついてしまえば別に親にならなくともわかる。というわけで、いい機会なので書いておく事にする。

誤解その1:親は子の環境に対して100%の責任と権利を有する

まずはこれ。上の発言主もこの誤解の虜になっている。日本にはこの誤解の虜になっている人が実に多い。「親子心中」なる他国では滅多に見ない親族殺人が見られる理由もこれだろう。これほど子供を大切にしているようでいて、子供を愚弄している誤解もないのだが。

実際のところ、子供にとっての親が占める世界というのは、一日ごとに小さくなっていく。生まれたての状態では「世界=親」であっても、徐々に「世界>親」となっていく。すでに乳飲み子の段階でも、たいていの場合祖父母という名の「非親」が「世界」にいるものだし、保育園や幼稚園や塾ではすでに「子」ではなく「生徒」や「友」として振る舞うことを求められる。小学校ともなれば、すでに「世界/2>親」ぐらいになっているのではないか。

確かに親はどこに住むだとか、どの学校に行かせるだとかといった「非親」の世界に対してもある程度の影響力を行使しうるし行使するものだが、そこまで親が出しゃばらなければならないとしたら、親はつらいし子はうざい。親も子も、24時間親子をやっているほど暇じゃないのだ。「従業員」でもなければ「経営者」でもなければ「配偶者」でもない親など存在しない。

子はあくまで「第一優先」であって親を「占有」するほどえらくないし、それは子にとっても同様。そして、いつか「第一優先」もなくなって、親もまた「気の置けない他者のリストの一部」になっていく。

こういったことは、知識としては言われただけでもわかるけど、血肉とするには実際に親になってから、自分が子だった頃を思い起こすのが一番いいようだ。しかし知識だけでもあるのとないのとでは大違い。さもないと、「嫁」や「婿」まであなたの責任で用意させられる羽目になりかねない。かつてはそうだったみたいだけどね。

誤解その2:育つのは子である

こちらは上の誤解よりもさらに気がつきにくい誤解。

子育てで育つのは、子供だけではない。親もそうなのだ。

体感としては、1年の育児が6年の学校教育に相当するぐらい。同じ30歳でも、18歳で子供を作った人と24歳で子供を作った人とまだ子供がいない人では、「大人力」が前に行くに従って格段に上がる。

よく考えれば、それもまた当然。子を育てるというのは、実は子に未来を託すという「予習」だけではなく、「自分が子供だったときはどうだったか」という復習も兼ねている。しかも子育てが親子だけで完結せず、保育園や学校といった社会に多かれ少なかれ委託する必要があることを考えると、これにさらに「社会とのやりとり」という過程が加わる。そしてこれらの全てを、子育てにおいては体で覚えて行くのである。

そのことを考えると、大学というのは実に罪作りな仕組みでもある。人生において親として最も学べる時期に、おばさんおっさんでも学べる知識を与えているに過ぎないのだから。その上、卒業生はその後も「社会人」として「親になる自信」を得るだけ「自らを育てる」のに数年から十数年費やす。折角人生50年が80年になったのに、活かせる時間がこれではむしろ減ってしまうではないか。

むしろ16-20のうちに親になり、大学は0x20(=32)歳からぐらいでちょうどいいのではないか。その頃には子供もローティーン。親なしでもたいていの日常行動は取れるようになっている。そしてその子どもが親になる頃には、親はまだ30代後半から40代前半。「社会人2.0」として現役バリバリで、60代とは比較にならないほど柔軟な「ジジババ力」を発揮できる。「どこどこの学校に入れる」だの「その学費をどうするだの」というのは、親としてではなく祖親として、また子育て卒業生としてより大局的に発揮できるではないか。

「配偶者選びのやり直し」という点からも、早めに親になることはおすすめだと思う。仮に配偶者1.0が気に食わないとしても、上のモデルであれば子育て卒業=社会人2.0。まだ充分やりなおすだけの時間があり、そしてそれを活かすための経験がその時点で身に付いている。

我々夫婦の場合、第一子誕生が妻30、私29で、今時としては普通だが上のモデルと比べてあまりに奥手である。これは主に私が父親となることに対して臆病だったことが理由だが、もし可能なら過去の自分にこう言ってやりたい。「『案ずるより産むが易し』は本当だよ」、と。

絶対原則:子は別人

実は上の二つの誤解は、これを体でわかっていれば生じ得ない。しかし誰もが頭で理解しているこのことも、実体験がないとなかなか体で理解できない。さらに困った事に、実体験をもってなお、このことに気がつかない人は少なくない。

子どもは、絶対に自分が思い描くようには育たない。どれほど自分の想像と子どもの現実が乖離しているかは人によって違うけれど、その多寡がどうであれ、この事実は祝福なのだ。つまり、

花見川の日記 - 2007-10-08
”自分の理解の範疇に無い存在”から家族を守る自信が無いからだ。

の「自分の理解の範疇に無い存在」だということだ。子を自分の分身か何かと思えば、それは不気味で受け入れがたいことかも知れないけれど、子が別人であるということ念頭におけば、それはむしろ当然のことである。

「子は別人」という基本的かつ絶対的な原則を敷衍すれば、「社会が子育てに一役買う」ということもまた自然に理解できるようになる。実際社会に子育ての片棒を担がせるようになってから、子どもの能力というのはずっと開花しやすくなったのである。あなたが九九が出来るのも、ネットで意見をやりとりできるのも、あなたの親が社会に子育ての片棒を担がせた結果ではないか。

にも関わらず、親が子育ての重荷をすべて自分達で抱え込もうとしがちなのは、親にとっても子にとっても社会にとっても、実にもったいないことなのではないか。

Dan the Father of Two