と思い込んでいる人へのおまじない。

heartbreaking. ブログの過去ログほど扱い難いものはない…
貴方が渾身の力を込めて文章を打ち、それがお金を払って読む著書より優れた内容でも、ブログの文章である限りは日々新しい記事に踏み潰されて過去へと流れてしまうだけです。

Firefox使いなら、スマートキーワード化しておくとなおいい。

しかし、この記事はgoogle hackでもfirefox hackでもない。blogと過去記事の関係に関してだ。

手頃なので、

への返答という形で記事をまとめようと思う。

1. ブログは過去記事の方が価値が出る

確かによく読まれるのは最新記事の方。特にTB PingやRSSリーダーが発達した昨今ではそれが目立つ。本blogも例外ではなく、Google ReaderやLivedoor ReaderやはてブはつねにリファラーのTop 5だ。

しかし、記事を全く書かない日にも記事を複数書いた日の半分ぐらいアクセスがある。そういう日にアクセス解析すると、3日前どころか3年前の記事のアクセスもちらほら見られる。そしてありがたいことに、そういった記事に張ってあるAmazonへのリンクから本を買って行く人も少なくない。

実際、ある記事が書かれるのと、その記事が評価されるのと間にはタイムラグがある。blogosphereでは一日以内に「反響」はあるが、それがニュースサイトで引用されるのは数日、本に引用されるのは数週間から数ヶ月。もちろん多くの記事は人々はおろか自分自身からも忘れ去られてしまうが、それでも3年間書き続けていれば、いい記事は残る。というより、時が記事を「洗って」、砂の中から砂金が表れだす。

こういった記事は、一年以上を経ても一日に100アクセスぐらい来る。私の記事は現在では一本書くとその日のうちに一万アクセスはあるが、しかし「砂金記事」は、一年通すとその数倍のアクセスを私にもたらす。一日だと1/100でも、一年なら3.65倍ではないか。

2. ブログは明日の自分自身に書くもの

確かにブログに今書けるのは、「その時の自分自身」しかない。しかしそれを誰が読むかと言えば、明日の自分だ。そして明日の自分から見た「その時」の自分は、昨日の自分という他人。別にブログに書かなくとも、今日の自分は明日の自分にとっての昨日の自分ということにかわりはないけど、しかしそれをブログに書いておけば、「昨日の自分たち」にはいつでも逢える。

これを書かないで済まそうとすると、過去の自分をいつまでも覚えておかなければならない。尾籠なたとえで申し訳ないが、それは精神的便秘の一番の原因だ。いいことも悪いことも、書いてしまえば「さよなら」ではなく「またね」になる。その安心感が、頭を空にしてくれる。

そしてありがたいことに、そうして「忘れた」「自分が昨日なにを言っていたのか」も、「自分がどんなことを言った」程度であれば思い出せる。そして実際に何を言ったかを知りたければ、検索一発で昨日の時分を再生できる。

「その場限り現金決済」のつもりで書いた事が、実は財産になっているというのはなんともおいしいことではないか。

過去の自分は他人にして友人

「過去の自分を超える」というのは気持ちよくたのもしいことだが、さもしいことでもある。超える超えないというのでは、自分は一次元の存在ではないか。毎日超えられる程度の自分で今のあなたはいるのだろうか?

実際、私にはもはや超えられない過去の自分がたくさんいる。特にティーンエイジャーだった頃の、毎日昨日の自分を超えようとしていた頃の自分にはそれを感じる。20代、いや30代前半まで、いや不惑を迎える前ならそれでも構わないと思う。しかしいい歳こいたおばさんおっさんが過去の自分と同じ土俵で戦うのは、凄いのではなく凄く滑稽なことである。

だからどうだろう。過去の自分は他人として、いや最も気の置けない友人としてつきあうというのは。最近の私は、何か問題を考えていてそれを検索して過去の自分に答えを聞く機会が増えてきた。ひどい場合には、「こいついいこといってるじゃん」と、それが自分であることを忘れて見入っていたりする。

その意味において、私はbloggerとなって、はじめて「老い」というものを肯定的に捉えられるようになった気がする。まだ不惑には少し早いし、惑うのは不惑と言わず一生ものだとも思っているが、しかし不惑にはなれなくとも、不安は、もはやない。

明日過去になった今日の今が奇跡だということを、もう知っているから。

Dan the Aging Blogger