なぜかはてブで私の名前が出てきたので、これを機会に嫉妬について考察しておくことにする。

POLAR BEAR BLOG: 「嫉妬は可能性の表れである」
これは谷川さんがスランプに陥り、それを克服した際のエピソードに登場するものです。
[中略]
だから、もし嫉妬心を覚えたとしたら、「それは自分に可能性があるからだ」と考えればいいのである。

上記の谷川棋士の例は、劣等感ではあっても嫉妬心ではないのではないか。

同書は私もだいぶ前に読んだのだが、そこから劣等感は読み取れても、嫉妬は読み取れなかった。確かにそこには「嫉妬心」という言葉が使われているのだが、その言葉が使われていることに私は強い違和感を感じた。

劣等感、または羨望と、嫉妬には深い相関関係があるが、この両者は同一ではない。羨望は嫉妬の母ではあるけれども、同一人物ではない。

自分より優れた何かを持つ誰かを見た時、自分が感じる苦痛、これが劣等感。ここまでなら私も「持っている」し、感じ取ることが出来る。また、「超えられない壁」がある場合よりも、「薄皮一枚」の方が苦痛が大きいという点も、通常の苦痛と似ている。かすり傷より骨折より方がかえって痛くなかったりする、あの感覚である。

これに対し、嫉妬というのは、その苦痛を何らかの方法で緩和しようとする代わりに、劣等感を感じた相手に苦痛を与えることによって相手と「同等」となろうとする心の動きなのではないだろうか。「ないだろうか」といったのは、私は長いことこのことが分からず、今もそれを感じることが出来ず、しかしそのような心の動きが多くの人にあり、それに気がつかないと痛い目にあわされるという経験を経てきたからだ。

私がこのことをはじめて「理解」したのは、「アマデウス」を観たときだろうか。それも、一回観ただけではわからず、何回目かに「あ、そういうことか」とやっとひらめいたのだ。

本作品は、サリエリのモーツァルトに対する嫉妬の物語だが、サリエリの劣等感はいつ嫉妬に変わったのだろうか。あるシーンにおいて、モーツァルトは宮廷(?)の淑女たちに囲まれながらリクエストされるがままに名演奏家たちの演奏を、あたかもタモリの四カ国語麻雀のように見事に披露する。そこに仮面をかぶったサリエリが登場し、「ではサリエリは?」とリクエストする。

それがサリエリであることを知らない無邪気なモーツァルトは、ここで思い切りサリエリをこけにしてしまうのだ。サリエリのつまらなさを誇張した演奏を一通りした後、最後に屁を一発。

サリエリが「凡庸な一音楽家」から、「嫉妬の鬼」に変わった瞬間である。

サリエリは、モーツァルトよりも劣っていたから嫉妬したのではない。モーツァルトに「おまえは劣っている」と知らしめられてしまったから嫉妬したのだ。

嫉妬が成立するのに劣等感は必須だが、しかしそれが嫉妬に化けるには、嫉妬する者がされる者から軽蔑されていると思い込む必要があるのだ。だから、嫉妬に関しては「嫉妬する」に対し「嫉妬を買う」という言い方があるのだ。

劣等感は内向きだが、嫉妬は外向き。どちらが危ないかといえば後者であり、それゆえどちらが外から見て「探知」しやすいかといえば後者である。嫉妬心はなくとも、どうすれば人が嫉妬し、どうすればそれを避けることができるかというのは可能であり、それが分かって以来私はなるべく嫉妬を買わぬようにしてきた。嫉妬心が欠落しているゆえ、嫉妬心があるものに比べて不器用もいいところだが、それでもそれ以前よりも「買う」量は減ったのである。

そして最近になって、さらに考えるようになったのは、「嫉妬にはどのような効用があるか」ということである。七つの大罪の一つでもあり、いいことなきように思われるこの嫉妬であるが、他の大罪を見れば、それぞれ罪ばかりではなく効用もあることはあきらかだ(別に"Wall Street"のMr. Gekkoの名台詞、"Greed is good"を称揚するわけではないが)。嫉妬にも効用はあるに違いない。

私なりにそれを考えた結果が、表題の「嫉妬心は協調性の表れ」ということである。突出した才能がむしろ共同体にとって害になる場面というのは過去何度もあっただろう。特に軍隊のような場所では、「隠せない爪」というのは非常にまずい。ファランクスは槍が長いから強いのではなく、みんなが同じぐらい長い槍をもっているからこそ効果を発揮する。そのような場において、嫉妬があるのとないのとでは、共同体としての強さに違いが出てくるのはごく自然なことだ。出る杭を打つにも訳がある、というわけだ。

しかし、七つの大罪がそれでも罪にカウントされるのと同様、嫉妬も効用はあっても罪もまた大きい。出る杭を打つことが悔いを残す場面もまた実に多い。特に大きいのは、嫉妬する相手にそれを悟られた場合で、この場合その相手にその能力全開でフルボッコにされることも覚悟しなければならない。サリエリは最後までモーツァルトに悟られなかったが、それはモーツァルトが鈍かったおかげであってサリエリの嫉妬が優れていたからではない。

さらに加えれば、嫉妬の発動は、嫉妬対象に害をもたらしはしても、嫉妬者の能力向上には一切寄与しないことである。それでも共同体の平安というのが至上命題だったころは功が罪を辛うじて上回っていたが、現在ではその共同体の平安も個人の幸福あってのことということになっており、「嫉妬が報われる」状況はますます少なくなっている。

にも関わらずいじめがあるのは、嫉妬にはかつて小さからぬ効用があり、嫉妬深きものが浅きものよりも有利だったころの名残であろう。それはいつかなくなるのかも知れないが、「社会の進歩」程度でなくなるものとも思えない。嫉妬心がある人の多くの自重を求めて行くのは当然のことだが、嫉妬される立場にあるものも、「感じる」ことは出来なくとも「察する」ことは出来るようになっておくべきだ。

自らのレクイエムに葬られぬためにも。

Dan the Envy-Insensitive