ウェブ時代をゆく」というより、私が最も引っかかっているのが、以下の言葉。

P. 96
「Only the Paranoid Survive」は、私がシリコンバレーで一番尊敬する経営者アンディ・グローブの言葉だ。

梅田望夫の座右の銘にして、本のタイトルになったこの言葉は、以下の二つの疑問の答えでもある。

  1. Why do so many people love America?
    - なぜそんなに多くの人が合州国が好きなのか?
  2. Why do even more people love to hate America
    - なぜさらに多くの人が合州国を嫌ってやまないのか?

"Only the Paranoid Survice"をどれほど痛く実感してきたかに関しては、著者より9年人生が短い私にも、著者にひけをとらない自信がいささかある。私自身、ハンガリー革命の亡命者の息子をルームメイトにもったこともあり、彼と彼の父親からそれがどんなだったか聞かされたこともあって、同じく亡命者だったAndy Groveの人生には、よく知られたその後半生だけではなく、それ以前の前半生も他人事にはあまり感じない。

Andy Groveもまた、国がParanoidだった国から合州国に来たものである。そんな彼らにとって、合州国というのはまさに理想の地だった。私はさんざん合州国の悪口を書いているが、なぜ彼らが合州国を愛してやまないかは他人事ではなくわかるし、かつては私もそうやって合州国に恋慕したものだ。いや、まだ恋慕しているのかも知れない。

合州国の一番の美点は、国が民に対してParanoidになることを、民がParanoidに許さないことだ。なにかやろうとするたびに「お上」の目を気にする必要は一切ない。実のところお上だって他の西側諸国以上に「下々」に目配せするし、またそれを強烈に願う民だって少なくないのだが、重要な局面ではいつも民のParanoiaが国のParanoiaに勝ってきた。典型的なのが、国旗を巡る裁判で、かの国は国旗を燃やす自由を国旗を保護する権利に優先した。国旗をどう扱うかは民が決めることで、国が決めるべきことではないということだ。

しかしかの国は、民どおしがお互いにParanoiaになった時に、法廷しか用意してくれない国である。法廷とは何か?どちらがよりParanoidであるかを判定する場である。かくして民はますますParanoiaとなり、そして最もParanoidであるものが生き残る -- Only the Paranoid Servive、というわけだ。

しかしそうやって懸命にParanoidに生きていると、ある日この設問にぶちあたるのである。

If it takes the paranoid to survive, is it worth surviving?

Paranoidでなければ生き残れないなら、そもそも生き残る価値があるのだろうか?

この設問は、私にとってははしかのようなもので、体調が悪いととたんに表に出てきたりする。

私自身、かなりのParanoidである。少なくとも幼少時はそうでなければ生きていけなかった。娑婆に出た時は、なんて喜楽なところだ、と思ったものである。この娑婆は合州国をも含む。私はかの地で銃殺された人を見たこともあるし、銃口を向けられたこともあるが、それでも家よりはよっぽど安全で安心な世界にそこは思えたのだ。

私のParanoiaは、確かに私が生き残るために欠かせない武器であった。いくら時代の節目変わり目にそこにいたとはいえ、Paranoidでなければ確実にそれを見落としていた。私はたまたまそこに、たまたまそこで必要とされていた技能を持っていたに過ぎない。しかしそれを使えとささやいたのは、私のParanoiaなのである。

私の20代から30代前半までは、二重の意味で私は得をしていた。一つは「世の中」が自分よりもよほどParanoidでなかったこと。私にとって世を渡るのは、バターをナイフで斬るかのごとく簡単なことだった。そしてもう一つは、「世の人々」が確実にParanoidであったこと。それはむしろ後ろから追いつかれるというより、後ろから追い風を受けるような感覚だった。「そうだ。こっちへ来い。でも君たちがここに来る頃には私はもっと先に行っているよ」。そんな感じだ。

そうやって、私は四人家族であればもう何もしなくても生きていける程度の財をなした。

そうして「ここらで一休み」と思って立ち止まって、愕然としたのである。

それって「もうオレいらね?」ってことじゃないか、と。

財産は家庭内暴力を振るう可能性もないし、不用意な一言で家族を傷つけたりもしない。私が家庭を築くことにさんざん躊躇していたのは、自分が育った家族のParanoiaぶりに嫌気がさしていたからではないのか。にも関わらず私は家族を持ってしまった。魔でも差したのだろうか。それでも先立つものがないのであれば、先立つものを得るために、私は家族の一員でありつづけるという言い訳がなりたつ。

しかし、先立つものは、もうここにある。

家族のSurvivalを優先するのであれば、not to be こそが正解ではなのではないか?狡兎を狩り終えた、より狡い走狗は、自ら進んで煮らるべきではないのか?

おそらくこの設問は、一生私を苛むのだろう。最近になってやっとこの「病」との間合いが取れるようになったようにも感じている。もはや私のParanoiaは直らない。いや、罪を上回る功を成してきたこの病を捨てるには私はあまりにもParanoidなのだ。

そしてこの病は、今や先進国であれば「生活習慣病」と呼んでいいほどありふれたものであるはずなのだ。この国だけで、億万長者は140万人もいる。かの国の億万長者と足すと、それだけで全世界の億万長者の半数を超えるのだそうだ。少なくとも彼らはこの病にかかっている。自覚しているかどうかはさておき。

しかしこの病にかかるのに、億万長者である必要はない。Paranoiaが培ってきたものが、自尊心より重く感じてしまえばいいのだから。おそらく先進国・地域に住む10億人の8割は、この病の患者予備軍だ。

とはいうものの、この病を宝と思っている人々が、世を引っ張ってきたのもまた事実であり、そしてこの「病」が本当に「宝」である国々は世界中に数多い。そういった国々においては、"Only the Paranoid Survive"というのは金言だと私も思う。

しかし、そろそろこの病を「生活習慣病」として認定し、対策を練り始めるべきときもまた来ているのではないか。「少子高齢化は地球規模では世迷いごとだ」という人もいるが、だからといってそれが日本の問題でなくなったわけではない。そして少子高齢化は実は全世界規模で進んでいる。このまま行けば人口100億人を人類が見ることはないだろう。80億人すらありえないという人々もいる(今までの人口増加は、国連の人口予測の下限近かった)。これは単なる生活習慣病ではない。未来病でもあるのだ。

この病の患者が最も多い国が、最もこの病の中毒となっている。それに気づいている人は少なくないし、それゆえ彼らはかの国を嫌悪するというより失望しているのだ。

Let the Paranoid Prevail -- So Long as They Make the World Less Paranoid.

Dan the Paranoid Survivor