これに首を傾げていたら、
ニコニコ動画が言い続けた「アンチ集合知」とは何だったのか - Attribute=51自分が見ている動画、ひいては見ている自分を否定する人がいない。ニコニコ動画ごときで満たされるカジュアルな承認欲求など要らぬ - Je n’avais pas l’intention d’aller à la mer. - HINAGIKU SAID ”LIVE OR DIE” (略称『らめぇ』)
受け手の承認欲求=自分の好みを肯定してほしい
という意見が飛び出して、あさっての方向に行き過ぎ感があるので、ひさびさにニコニ考してみることにした。
ニコニコ動画は、承認欲求、すなわち「私を私として認めろ」という場としては最低とは言わないが、かなり非効率な場だ。「私を私として」認めるためには、「私でない」ものが「私」とくっきり別れてなければならないが、ニコニコ動画では、その動画が誰のものかすらつまびらかではない。中にはうp主が自己主張という名の承認欲求を満たすためうpされたものもあるかも知れないが、うp主が「これは面白い」とばかり他から持って来たものも少なくない。むしろそちらの方が多数派かも。
動画本体すらそのありさまだから、ましてや弾幕を打ちにくる人や、ただそれを眺めに来ている人は承認欲求を満たしようがない。承認欲求の充足ということであれば、blogはおろかSNSやSBMの方が遥かに優れたツールである。
では、ニコ厨たちは、いったいなにしにニコニコ動画を訪れるのだろう。
承認欲求とは反対の、「自分を忘れるため」に来ているのではないだろうか。
これは、祭りと同じだ。ここで言う祭りは、本来の「祭り」にも「ネットで盛り上がっている場」というそこから派生した概念にも共通している。祭りの参加者は、自己主張したくて来ているのではない。結果として自己主張した気分になる人もいるかもしれないが、それはおまけであってお目当てではない。
お目当ては、そこで自らを忘れて、祭りの一部となることである。うp主も弾幕打ちも、そして動画をただ見ている人たちも、自らを認めてもらうためにそこにいるのではなく、「自ら」という痛々しいことをしばし忘れたいからそこにいるのだ。
ニコニコ動画が満たすもの、それは忘我欲求なのだ。
我々は、常に「僕が僕でありたい」のだろうか。それがどれほど痛いことかというのは、id:y_arimさんに指摘されるまでもなく我々は常日頃感じている。もちろんそこには痛みを超えてでも勝ち取りたい「私」というのはあり、そしてそれを「他」に認めてもらいたいという欲求を承認欲求というのであれば、承認欲求は確かにある。確かにあるがそれは常に満たされていたいというものではなく、「今この時満たされたい」という一過性の感情なのではないだろうか。
忘我欲求も、またしかり。世界でたった一つの花を咲かせたいときもあれば、誰にも見分けがつかない路傍の草の一本でありたいときもあるのが我々の正体ではないか。
これまでWebには、承認欲求を満たすための場は数あれど、忘我欲求を満たす場というのは実に少なかった。強いて言えば2chだろうが、2chはそれを目指して作られた場ではなく、忘我欲求が満たされたとしてもそれはおまけとしての効用だったと思う。
それがおまけではなく、お目当てまで昇華されたのが、ニコニコ動画のように思えてならない。
Dan the Party Animal
共感したい人、
純粋に動画を楽しみたい人、
(コメント或は動画投稿で)承認されたい人、
いろんな奴がいるだろう。
動画投稿者は基本的に、自己承認欲求の比率が最も高いと思う。
転載にしても、「自分の好み」を承認してほしいという欲求。
集団の一部になりたいだけなら、投稿という手間のかかるアクションをとる必要がない。
また、本人の情報を記載されていないからといって、非効率であるとは言えない。
評価人がたくさん存在する、という点では非常に効率的だ。