「アランの幸福論」と一緒に献本いただいたのが、こちら。
「アランの幸福論」がクリスマス向けなら、こちらは新春向けといった趣きの一冊に仕上がっている。
本書「菜根譚」は、薬膳の本、ではもちろんない。処世訓、それも数ある処世訓の中ではかなり有名なものである。著者である明の人、洪自誠でAmazonを検索しただけでも、本書を含め43点も引っかかる。特に講談社学術文庫版と岩波文庫版がすでにあり、今更ハードカバーで出す意味がどこにあるのか、最初は首をかしげた。
実際に読んでみて、なぜディスカヴァー・トゥエンティワンがそれをあえてやったのかが、よく解った。
多摩通信社が玉くしげを出したのと、同じ理由だ。
例えば、原文
菜根譚 - Wikisource士君子幸值清時,復遇溫飽,不思立好言,行好事,雖是在世百年,恰似未生一日。
が、本書ではこうなる。
エリートとしての自覚を持つ
真のエリートとは、世の中のために働こうという強い意志と社会的責任を自覚している人のことだ。
幸いにも、選ばれて社会的に高い地位につき、豊かな生活を保証されているのに、人のためになるような発言も仕事もしないようでは、どうしようもない。そんな人間は、百年生きたとしても、一日生きた値打ちさえない。
これであれば、1969年生まれで、特に漢文や古文を読む訓練を受けていない私でも読める。
古典ファンは、わざわざこんなに平易にしなくてもいいではないか、と思われるかも知れない。実際菜根譚の内容は、ここまで噛み砕いてもなお苦い。というよりむしろ噛み砕いたことにより、苦みが増しているかもしれない。「菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそものの真の味わいがわかる」から「菜根譚」なのだが、本書はさしずめ青汁といったところだろうか。
ありがたいことに、本書はこの現代語訳をメインに据えながらも、本書で使った原文とそれに対応する古文を全て巻末に収録してある。漢文や古文の素養がある方なら、現代語訳の出来もチェックできるだろう。私はどちらもないが、漢文の方が少しわかった。
本書は実に耳に痛く、口に苦い訓が多い。10代の頃に読んでも「うぜえ説教だな」ぐらいにしか思わないだろう。岩波版を当時図書館で読んだ記憶がおぼろげにあるが、そういう感想だった。20代で読んでも「ご高説ごもっとも。しかし世の中そんなに甘くない」と思ったかもしれない。甘いのは世の中ではなく自分なのに。
しかし、今なら、わかる。「アランの幸福論」は、日数単位でタイミングがよかったが、こちらは年数単位でタイミングがよかったということだろうか。
本書が他の古典的処世訓に増して、特にこの時代に即していると思われるのは、若者バッシングがないことである。本書には、「昔はよかった」という論調がおよそ見られない。むしろ年寄を諌める言葉に溢れている。一つ紹介して本entryをしめくくることにする。
そうそう。今回は目次は割愛。220も項目があっては手で入力するのはちょっと私の手に余るので:-)
後半生こそきちんと生きる
若い頃、好き勝手に遊び暮らしていても、どんなに派手な生活をしていても、晩年になって身を固め、堅実な生活をすれば、過去の浮ついた生活は帳消しになる。
ところが、若い頃は節度を守って生きていたのに、晩年になって欲におぼれてしまったり、人の道にはずれた生き方をしてしまったりすると、それまできちんと生きていた半生が台なしになってしまう。
人間の一生は、後半の人生をどう生きるかで決まるのだ。
男性の平均寿命から行くと、私はちょうどど真ん中。果たしてうまくいきますことやら....
Dan the Middle-Aged
文は拙を以って進み、道は拙を以って成る。
―文はヘタでもこつこつやっていれば大成する。道徳も不器用な人間のほうが修養が進む。
節義を以って標するものは必ず節義を以って謗りを受く。
―節義を売り物にしている人間は必ず節義で痛い目に遭う。
淫奔の婦は矯めて尼となり、熱中の人は激して道に入る。
―淫奔な女がなぜか突然尼になってみたり、過激な人が逆上して出家したりする(が、仏道にとっては邪魔なことである)。