これを見て思ったのが、タイトル。

依存心と自由と保護のトレードオフ - pal-9999の日記
そして、僕自身も、それは全くその通りだという結論に達してる。女性は抑圧されている。これについては、ほとんど疑いようが無い事実だ。歴史的にも、社会的にも。ほとんど、全ての文化で女性が不利な制度というのが存在する。

女性は、被「抑圧」者である以上に「抑圧」者なのではないか?

ここであえて「抑圧」という言葉を括弧に入れたのは、この言葉に含まれている悪のニュアンスを中和しておきたかったからだ。「抑圧」の文字通りの意味は、「抑えるように圧をかける」こと。何を抑えるか、といえば「行き過ぎ」である。

「抑圧」とは、ネガティブ・フィードバックのことである。出すぎれば抑え、引っ込みすぎれば引っぱり。そして、生物の行動のほとんどはネガティブ・フィードバックである。そうでなければホメオステーシスなどありえない。生のほとんどは、ゆえに「抑圧」で出来ていると言っていい。

養老孟司が「女性はより自然に近い存在」と複数の著書で述べているのを見て「なるほど」と思った理由が、それである。

それに対して「解放」というのは、ポジティブ・フィードバック。出るときはもっと出るが、引っ込むときはさらに引っ込む。これは、生物にとってはほとんどの場合やばい。が、たまにこれが功を奏する時がある。特に速度を要求される時にはポジティブ・フィードバックは有効だ。

日常はネガティブ・フィードバックで、ときどきポジティブ・フィードバック。これが、どうやら生物の公式。

そう考えると、「自然により近い」女性がより「抑圧」的で、男性がより「解放」的なのも当然なのではないか。

「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」

ところが、これは生物学的では真逆。女がデフォルトで、男はそこから「精製」される。だから男の場合、「なり損ない」も結構でる。ここではあくまで生物学的な話なのでその点はご留意を。この点一つ取っても聖書のガセビアがよくわかる。アダムの肋骨からイヴが作られたというのはどう考えても逆なのだから。

で、話を「抑圧」に戻す。「女性は社会で抑圧されている」というのは、社会と女性を切り離して見たときのものの見え方で、私はより事実に近いのは「女性が社会に抑圧的であることを望み、男性はそれに呼応している」のではないかと疑っている。男は外で失敗してたまたま成功したらそれを女に持ち帰るのが仕事。成功するより失敗しないのが女の仕事、というわけだ。

実際、男性は女性に貢ぎたがっているほど、女性は男性に貢ぎたがっているわけではない。その余裕があれば、女性は子孫に貢ぐものだ。この点は、自分史も世界史も一緒のように感じる。

実は、このことが「若者を見殺しにする国」の主題になっている。著者は「社会人」を「強者男性」「強者女性」「弱者男性」「弱者女性」の四つにわけた後、

「強者男性」=「強者女性」>「弱者女性」>「弱者男性」

という不等式を提示する。最初の等式が不等号ではないかという気がしないでもないが、主題はそちらではなく、「弱者女性」>「弱者男性」の方にある。「弱者女性」は庇護を受けるのに、「弱者男性」はそうではない、どうしてくれるというのが同書の主題の一つである。

「弱者男性」という表現に新規性を認めつつも、それ以上に私が感ぜずにはいられなかったのは、「かっこ悪い」ということだった。しかし、本書に繰り返し出てくる「私は、生きたいのです」という表現を見て改めて納得した。

この人は、生まれ落ちる性を間違ったな、と。そしてそのことをありのままに受け止められないのだな、と。

私も(少なくとも今は)積極的に死にたい、とは思わないが、「弱者女性」と等しく生きる権利を認められたい、とも思わないのだ。別の言い方をすれば、女より先に救命ボートに乗りたくないな、ということ。ただしその後であれば、残ったヤローを全て突き落としてでもボートに乗ってやるという気概があることを認めるのはやぶさかでない。この気持ちは、自分が「弱者男性」だった時から変わらない。

私が男女関係に期待するのは、「イコール」ではなく「フェア」。今のありようはイコールではないが、フェアだと感じている。そして男女なるものがこの世に居続けるかぎり、「イコール」はありえない以上、「フェア」を目指すしかないとも思っている。平均値を取れば女がよりrobustだが、その代わり男には大きな分散が与えられている。どちらが「損じゃない」かといったら女の方だが、「どちらが面白いか」といえば、それは両方やってみなければわからない。残念ながら我々はクマノミではないので、今のところは与えられた性を生きるしかない。余談だが、私は個人的には不老不死よりも完璧な性転換の方にずっと興味がある。

社会が「抑圧」的であるからこそ、ちょっとやそっと「解放」に走ったところでびくともしないからこそ、こちらも安心して無茶が出来るというものではないか。

Dan the Happily Suppressed