それが、今時の若者達のラフコンセンサスだ。

変革が好きな人たち (内田樹の研究室)
社会をよくするには「一気」と「ぼちぼち」の二つしか方法がない。

120%同意である。

それでは、どんな時に「一気」、いや「一揆」となるのか?

「ぼちぼち」をさぼり続けて来た結果、にっちもさっちも行かなくなった時である。

それでは日本がさぼってきた「ぼちぼち」は一体なんだったのか?

「若者はコモディティである」という考えからの脱却である。

それがうまく回らなくなることは、すでに1970年代には明らかになっていた。にも関わらず、この国はコモディティとしての若者の供給が潤沢であるという前提のもとに進んで来た。公共事業しかり、年金しかり。

それでも、まだ団塊ジュニアの数が少なくなく、彼らの生産性が高く、そして彼らが家庭を半ば諦めてまでがんばってくれているおかげで、なんとか破綻を免れているのが現状だ。しかし、「金属疲労」の音はもう誰の耳にも届いているはずだ。このままでは、「日本丸」が壊れるのは明らかだ。それも、プロペラの軸が過労で折れるという形で。

社会成員の全員が、自分でコントロールし、自分でデザインできる範囲の社会システムの断片(ピースミール)をとりあえず「ちゃんと機能している」状態に保持すること。

私たちが社会をよくするためにできるのは「それだけ」である。

そのとおり。そしてその作業の中には、「海へ飛び込む」というものも含まれている。いや、定員が限られているこの船がずっと航海している以上、いつかはそうしなければならない。しかし一等船室の乗客たちは、自分がいつまでもそこにいられると思い込んでいるようにすら見える。

「ぼちぼち」社会をよくしたかったら、「ぼちぼち」逝ってくれないと。

トップヘビーで重心が上がりすぎた船は、転覆するしかないのだから。

Dan the Accidental Passenger