以下の二つは、正反対のようでいて同じことであるかのように私には見える。
1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方 - 分裂勘違い君劇場
- 現状を変える一発逆転があると思うかもしれないけど、どうやら近道はないみたいです。
- 毎日少しずつ、少しずつ努力を積み重ねるしかない。まったく人生ってやつは。まったく。
むしろ、「近道を探す努力」こそが正しい努力であって、 「近道や一発逆転を狙わないで地道な努力を積み重ねる」という姿勢が、 自分と周囲を不幸にし、 格差と貧困を生み出し、日本を衰退させてきた。
なぜなら、毎日散歩していないものには一発逆転の近道にあたるチャンスもないからだ。
1ヶ月間だけ、思い切りがんばれば。 - Attribute=51
- 毎日努力している人にはどんな天才も絶対に及ばない。断言していいです。
ちょっと違う。天才とは、誰よりも楽に努力している人のことである。
実例はあまりに多いが、ここは私が好きな不完全性定理の発見について述べたい。「不完全性定理って何?という人は右の本を参照のこと。今までも書いてきたのだが、不完全性定理に関して私が一番腑に落ちなかったのは、なぜラッセルでもヒルベルトでもなく、ゲーデルがこの定理の第一発見者となったかということ。
才能というか、視野というか、冴えというか、いわゆる「先天的な天才」要素に関しては、ゲーデルを上回っていたとしか思えない人はたくさんいた。ラッセルもヒルベルトもそうだし、フォン・ノイマンとかに至ってはこれが同じ人類かとすら思える。しかし、二十世紀最大の発見(と私が思う)、不完全性定理が届けられたのは、一番愚直そうだったゲーデルに対してだった。
他の天才たちは、目が鋭く手が器用だったゆえに、数学に酔い、数学を過信し、そして数学に甘えてしまったのではないか。ヒルベルトの「我々は知らなければならない、我々は知るであろう」という台詞は、その様子を実に端的に表している。
ラッセルもまた、数学への過信ゆえに目の前を通った不完全性定理を見落としてしまった一人だ。「ラッセルのパラドックス」と不完全性定理の間には、髪の毛一本すら入らぬほどの隙間しかないのにそれを見逃してしまったのは、ラッセルの視線がヒルベルトが指差した方向を見つめていたからではないのか。
ゲーデル・不完全性定理 p. 267竹内外史教授が、あるとき前原氏にしみじみと、こう語ったことがあるそうです。「われわれの一〇〇倍も二〇〇倍も頭のよいああいう人(=ゲーデル)が、我々の一〇〇倍も二〇〇倍もの努力をしているのを見ると、我々ももっと勉強しなくてはならぬと思った。」
こういう天才だからこそ、運命の女神もゲーデル惚れてしまったのだろう。
その一方、「毎日歩き続ける」ことが、天才の視野を狭めてしまうこともある。エディソンがその典型的な例だろう。彼は最後まで交流(AC)の良さがわからず、直流(DC)にこだわりつづけた。「学がないから」という人もいるが、私にはそうは思わない。学の有無は、はっきり言って理解力と何の相関関係もない。むしろ学校の役割というのは、理解力が足りない人にも理解を与えることにこそある。
テスラが交流の良さを見いだしたとき、エディソンはすでに自他ともに認める天才だった。そのことが、彼を縛ってしまったのではないか。希代のLearnerはそれゆえにUnlearnできなかったのだ。
結局のところ、自分にあった歩調で、しかし自分がまだ歩んだことがない道を歩いていくしかないのだろう。
信ずる者は救われる - 雑種路線でいこう「近道があるに違いない」と信じるひとも「近道はない」と信じるひとも、それぞれに社会で重要な役割を担っているし、信じることで救われているのではないだろうか。
自分がその時どこを歩み、何を見ていたかというのは、「自分」というよりは d自分/dt という、短いが長い「自分」の微分値にすぎない。微分値だけ見て「こうだ」と人は言いたがるけど、結局のところその人の人生というのはそれらの積み重ね、すなわち積分なのだ。
苦労は必要ない。努力は報われると限らない。希望は創造性にある。 - 萌え理論Blog「苦労知らず」などといって、人が人を責めるとき、「俺がこれだけ苦労したのだから、お前もそれだけ苦労しろ」という感情がある。だがそれでは、「みんなで一緒に苦しもう」という道に進んでいく。この嫉妬が醸造する、空気による同調圧力が、日本をいくらかは住みにくくしているのではないか。端的に苦労の総量を削減する必要がある。空気抵抗は騒音も生む。
これは、「なぜ褒めるべきか」というより「なぜ貶すべきでないか」ということに対する答えにもなる。貶しが一般的だと、インプット-プロセス-アウトプットループのコストが上がるのである。「下手なアウトプットは貶される」ということになれば、当然「大物狙い指向」になる。日本の文化が地道を尊ぶ割には、地道な成果(そう、派手な方でなくて)に意外に乏しいように見えるのは、そのことが多いにあるのではないか。
その一方で、貶されたときの損失を減らす努力というのは、公共コメント機構(笑)を通じて荒らしはダメだぞ、と連呼しなくても、各自だってこの瞬間から行える。貶しを受け取るときの掛け目を下げるだけでいいのだ。私の場合、これはゼロに近い。ゼロにはまだなっていないところがまだまだ修行が足りないのだが。
一発狙い派も、地道な努力派も、このことは共通して言えるだろう。
口径20cmの反射望遠鏡を作るには、まず口径10cmの反射望遠鏡を作ってから取りかかった方が、いきなり20cmの反射望遠鏡に取りかかるより早い。
まだ10cmの奴を作っていない人は、まずはそれに取りかかろう。それでも難しければ、5cmのを作ってもかまわない。まずは自分の作れるものを作り切る。それを知らないものに、一発が訪れることはまずない。1回目に来るか1000回目に来るかわからないところが、運命の女神の気難しいところではあるのだけど。
努力って、そういうものなのではないか。
Dan the Random Walker
一階述語論理の完全性を証明した後に
数学の完璧さを証明しようとして
二階述語論理に取りかかって
不完全性定理にぶち当たったのです。
彼はその結果に驚いて友人に間違いがないか問い合わせています
だからゲーデルの場合も予期しない一発逆転だと思います