納得行かねえなあ。

ありがとうございました。 - $ dropdb 人生
今日限りでこのブログを終わりにしたいと思います。
皆様、長い間ご愛読ありがとうございました。
ありがとうございました。 - $ dropdb 人生
このブログ(文章)の内容で私自身を判断されることが多くなり困惑することが増えました。

これは、当然のこと。書き手が読者に「こう読んで欲しい」と思う権利がないわけでもないが、それ以上に読者は自分が読みたいように書かれたものを読む権利があるのだから。これは、基本にして根本。

ありがとうございました。 - $ dropdb 人生
こちらが一番の理由なのですが、周囲への影響が大きくなりました。

差分を見て「大きくなった」というのは間違いないのだろうけど、「大きさ」を見ると「この程度で?」としか感じられないなあ。

『 dropdb の勤める会社は dropdb みたいなバカな人が多い』と思われ株価低下につながるかもしれません。

これは、はっきり言って自意識過剰。仮に本当に株価が低下したのだとしても、従業員たる(役員だとしたら話が違うのでこの段落は無視して下さい)あなたには責任がない。責任があるのはあなたを雇った会社。

弟の友達がこのブログを見つけたとして『お前の姉ちゃんアホだな』とイジメにつながるかもしれません。

これまた自意識過剰。イジメが生じたとしても、悪いのはあくまでイジメた奴。それともあなたは弟さんを扶養でもしているのか?

周囲の大切な人たちにまで同じような目で見られてしまうのは申し訳なく思います。

その「周囲の大切な人」というのは、同じような目で見られたらそのことであなたを責めるような人なのか?仮にそうだとして、そういう人が、「ブログの内容で判断」する人たちよりも大切な人である理由って何だろう? そしてもしそうではないのだとしたら、あなたは「周囲の大切な人たち」を見くびっていることになる。

で、ここ。

ありがとうございました。 - $ dropdb 人生
(ブラックな)日記の内容、2ちゃんねる語を用いた言葉遣い、ITmediaに掲載された記事の内容。
ありがとうございました。 - $ dropdb 人生
それゆえ実際の自分とは乖離がある『変な女』が出来上がり、自分で生活しづらい環境を作り出し大切な人たちまで傷つけていました。

この「実際の自分とは乖離がある」という奴だ。

実際の自分って、なんだろう?あなたは実際の自分を知っているのだろうか?

私は、知らない。いや、知らないことを知っている。

ここに出てくる「小飼弾」もまた、私が知っている小飼弾とはかなり違う。例えば私は「ねーよ」という言葉遣いはしない。同記事は、あくまで西尾記者とid:lovecallというフィルターを通して、読者を楽しませることを意図として書かれた記事である。それにさらに読者各自の「読み方」というフィルターがかぶさっているのだから、私が知っている小飼弾と、この記事を通してのみ小飼弾を知る人にとっての小飼弾には、かなりの「乖離」がある。

しかしそれもまた、小飼弾なのである。

公になるというのは、そういうことである。晒すというのは、そういうことである。

dropdb - 西尾泰和のはてなダイアリー
少なくとも、ウェブ上でしか知らない人のことを「知っている」と思うのはよくないなぁ。ましてやウェブ上ですら知らない「周りの人」にまで広げるのは。

これはいただけない。「赤の他人」ならさておき、「id:dropdbという虚像作りの共犯者」の台詞としては。メディアは人の、さらにそのまた一部を拡大投影する。そしてそうやって投影された虚像は一人歩きをする。それが時に被写体自身に痛い目をあわせることがある。共犯者であれば、その程度のことは確信犯であってしかるべきだ。

おっとっと。

とおりすがりさんのコメント。
西尾泰和さんはITmediaの記者(西尾泰三さん)とは別人だと思いますけど。

そうでした。いただけないのはお前の目である>小飼弾。しかし、これを消すのは覆水を盆に返すことにはならない。両西尾氏に陳謝の上、このまま残すことにします。

と書いたが、こうして私が今描写した西尾記者の姿もまた、虚像の一つだ。なぜ12月25日に行われたインタビューが記事になるまでこれだけの時間がかかったかといえば、写真やテープといった元情報の膨大さも去ることながら、西尾記者が「なるべくインタビューイーの利得を最大に、損失を最小に」を心がけて記事を起こしたことが最大の理由であることも私は知っている。実際彼は記事が公開される前に、「これでOKか」と草稿を送って来たのだ。これは誠意ではあるが義務ではない。記者の本来の仕事は「どう見えたか」を記事にすることであって「どう見て欲しいか」を記事にすることではないのだから。

結局自分自身をも含めて、人というのはこうした虚像の積み重ねに過ぎないのだ。

私が、TVに出ることを決めた時に、決めたことが一つある。

一度情報発信をする以上は、死ぬまでそこから下りないこと。

情報発信をする以上は、それに対する誤解のリスクというのは当然高まる。しかし、一度受けた誤解は、黙っている限り固定される。そしてそれらがデジタル情報である以上、一度発信された情報は、誤解をも含めて腐らずに固定される。

それが不満なら、申し開きを続けるしかないのだ。

面白いことに、そうやって申し開きを続けている過程で、今までは知らなかった自分も見えてくるし、自分もまた日日変化していく存在であるということを、知識だけではなく体でもわかるようになってくる。それがわかれば、乖離した自分の虚像も受け止め受け入れることが出来るようになる。

かつての自分の「虚像」を見せられて、「あれはあなたですよね」と言われて、それが気に食わないものであれば、こう言い放ってしまえばいいのだ。

「そんな時代もありましたねえ」。

ずるい?無責任?でも本当なのだから仕方がない。

ありがとうございました。 - $ dropdb 人生
ブログを見ているというだけで“私の全てを知っている”。

これが絶対に真となりえないことを、私は知っている。

その一方で、「私が知らないがあなたは知っている自分」というものがあることも私は知っている。

「自分」には、以下の4種類がある。

私しか知らない自分私もあなたも知っている自分
私もあなたも知らない自分あなたしか知らない自分

我々の多くは、上半分が圧倒的に大きく、そして左上が最も大きいと思いこんでいるが、違うのである。

上半分、すなわち「自分が知っている自分」など、氷山の一角なのだ。実は最も巨大なのは「私もあなたも知らない自分」であり、そして「あなたしか知らない自分」、もう少し正確には「あなたにしか知り得ない自分」がいかに大きいかというのを私は日日体感している。

なぜ私が発信するか。根源的な理由は「自分こそが最大の謎」だからだ。「私もあなたも知らない自分」は、「あなた」の数が増えれば増えるほど「あなたしか知らない自分」へと転化される公算が高まり、そしてそれについて「あなた」の一人が語れば、今度は「私もあなたも知っている自分」となる。幸か不幸か「私もあなたも知っている自分」が「私しか知らない自分」へとなることはないのだが、この「公化サイクル」を受け入れれば、今まで見えなかった自分が見えてくる。

このサイクルを止める、ということは、単に「私しか知らない自分」を大きくすることに留まらず、「私もあなたも知らない自分」も大きくなることを意味している。人が日日変わっていく以上、日日この二つは成長している。

人というものは、鏡がなければ自分の顔すらわからない。

だから、私は自分を晒している。そうしないと自分がわからないから。

Dan the Public Figure

追記: Thx>西尾記者