こちらの方は未読だけど、「24人のビリー・ミリガン」の方は読んだ。
On Off and Beyond: 誰にも勧めないすごい本:Switching Time衝撃的な実話。多重人格を一つに統合する、という話し。似たような内容で、やはり実話の「24人のビリー・ミリガン」という本が15年くらい前にありました。比較すると、読み物として万人受けするのはビリー・ミリガン、内容がより衝撃的で深いのはSwitching Time。
その他、さまざまな多重人格モノを読んだ末の結論が、タイトル。
この「人格」というのもクォリア問題と同じで、どの程度「自分にあてはまることが、他人にも当てはまるのか」という問題を常にはらんではいるのだけれども、それでも私が多準人格こそ普通だと考えるに至ったのにはきちんと理由がある。以下、いくつか五月雨式に。
夢
夢の中に、自分以外の人物が登場しますか?その人はなにか話していますか?
夢の中の登場人物に語らせているのは誰ですか?
物語
優れた作家が口をそろえて言うのは、「キャラクターが勝手に動いてくれる」ということ。
このキャラクターが「いる」のは「どこ」ですか?
天使と悪魔
もう何万回と漫画で見たことがあると思うけど、「天使」と「悪魔」が頭の中で葛藤しているというアレ。
「天使」と「悪魔」の正体は?
こうやって考えると、人格というのは誰にとっても複数あることこそ自然で、むしろ日常生活でどの「人格」が応対しても、「同一人格」として扱われて、そして多くの人が「同一人格」として見なされるほど日常生活で首尾一貫した行動を取れることこそ奇跡なのではないか。
そういうわけで、多重人格そのものは私は病気とは見なしていない。むしろ多くの人格を設定できる人ほど適応力が高いとすら見なせるかも知れない。問題が起きるのは、これらの人格が、他の人格から「引きこもってしまう」時といっていいだろう。人格切り替えの時に「引き継ぎ」も行わないので、当然「自分がやった」ことに対しても応答 = respond できない。respond できないので、 responsibility = 責任を負うことが出来ない。
On Off and Beyond: 誰にも勧めないすごい本:Switching Time - コメント欄にてちかちゃん追補ちなみに、「multiple personality disorder=多重人格」というと、「いろいろな性格がある」という風にも聞こえますが、最近はdissociative identify disorder=解離性同一性障害、と言う名前で呼ばれるようになってます。
dissociative identify disorder = 解離性同一性障害 の方が正しく症状を著している理由も、そこにある。問題は人格が atomic でないことではなく、 dissociative になってしまっていることなのだ。
解離性同一性障害のレポートは面白いのだけど、それ以上に私が興味があるのは、どうやって我々はそれぞれが持つ数多の人格を associative なものにしているかということ。我々はどうやってスムーズに Personality Switching をしているのか。
「寄生獣」の三木と後藤のように、はじめから別の「個体」が肉体を「乗り合い」しているというのはわかりやすいのだけど、私を含めほとんどの人にはこれはあてはまらない。
実際、私のblogは「一人の作品」というより「小飼弾」という「ユニット」の作品と見なした方が納得する。ある時は人格A、またある時は人格Bという感じで。ちなみに私の人格は全て「名無し」で、その時に体の制御を担っているものが、「小飼弾」に対して応答している。人格は違えど名前は同じといったところか。人格どおしのコミュニケーションがある場合も、「そこのお前」程度の、その場しのぎのIDで間に合っている。人格というより、Unixのプロセスに近い。実際fork()しているとしか思えないこともあるし。
ところで、このentryを書いたのはどの人格だろうか....
Dan the Society of Mind
記憶に一貫性があるのなら「多重」人格とは言えないと思います。