池田先生、50点。

あなたの知的生産性を10倍上げる法 - 池田信夫 blog
知的生産性を上げるためにもっとも重要なのは、こういうお手軽なハウツー本やマスコミの通念を信じないで、自分の頭で徹底的に考えることである。

それも筆記試験だとした場合。マークシートのように、答えだけしか書かないものであれば0点。

なぜか。

知的生産力は知力とは異なるからだ。

知力というのは、「人に思いつかない事を思いつける」能力。それに対し、知的生産力は、「人が思わないことを、人に届ける」能力。

だから、徹底的に考え抜くというのは、知的生産においては査定0なのだ。むしろ「とりあえずここまで考えた」というのをさくっと抜いてしまった方が知的生産力は高いといってよい。

ダシにして申し訳ないが、典型的なLisperからみたかつてのid:higeponや、現在のid:amachangの「知力」は高いとはとても言えない。例えば遅延評価のことは、SICPを読めばちゃんと書いてある。そしてこれはまともなComputer Scienceがある大学なら、一番最初に使う教科書の一つなのだ。「まとも」に教育を受けた人なら、「遅延評価童貞が許されるのは、小学生までだよねー」とか言うかもしれない。

しかし、彼らの知的生産力は10倍どころでなく高い。その過程を逐次晒しているからだ。その過程で「知力」豊かな人々の助言も得られるし、彼らの「失敗」を通して彼ら自身だけではなく、彼らのblogの読者もそこから学ぶことができる。もし読者の知的生産力の向上も彼らの知的生産力の方にカウントしたら、知的生産力の差は十倍どころか数千倍、いや数万倍のオーダーだろう。これを繰り返しているうちに、今度は知的生産力だけではなく「地力的」な知力も向上していく。

そして昨日の知力差を見下していた君は、今日起きて途方にくれる--かも知れない。

ここで私は、「知的生産力は、『人が思わないことを、人に届ける』能力」と書いた。あくまで「思わない」であり「思いつかない」ではない。そして「人に届ける」であって「自ら思いつく」ではない。

さすれば、理論的には以下のようにすることで各自の知的生産力というのは簡単に10億倍、すなわち10桁増しになる。

  1. まずは独立した個人を考える。この個人の知的生産力を1とする。
  2. つぎに、この個人を10億人集める。これらの個人は、他の誰も思わないことを一つは思いつけるものとする。
  3. この10億人を、ネットワークで繋ぐ。このネットワークの参加者は、任意のネットワーク参加者の知識にアクセス可能とする。
  4. これで知的生産力は当初の10億倍

詭弁?しかしこの詭弁を詭弁でなくしたのが、インターネットの本質ではないのか。

実際のところ、この「理論的知的生産力10桁アップ作戦」は、そうは問屋がおろさない。まず、2.の前提が実際には成り立っているとは言えない。知識にも知恵にも重複があるのだ。次に、3.の前提も成り立っていない。仮にネットワークに繋いだとしても、ある人の知恵や知識の理解は、まず言語に阻まれ、つぎに閲覧者の偏見で阻まれる。一言で言うと、MECEになっていないのだ

それでも1000倍ぐらいには、軽くなってしまうのだ。軽くなったので、知識の単価はべらぼうに下がっている。しかしその知識単価のデフレを加味しても、換金ベースでの知的生産力を10倍にするのはわけないのだ--あなたが出力さえすれば。

そして今私は、暇が出来ると結構くそまじめに知的生産力10桁アップの方法を考えている。そのための基盤となるのが、以下だ。

404 Blog Not Found:ブロガーのための三部作
「高校生のための文章読本」pp.208
  1. 良い文章とは
    1. 自分にしか書けないことを
    2. だれが読んでもわかるように書いた文章

ネットワークの参加者の一人残らず、自分しか書けない事を持ち、そしてそれを残りの参加者が誰にでも理解できるように書いた時、「ヒト」の知的生産力と「人間」の知的生産力の比は10億倍のオーダーとなる。

なぜどの知的生産本も、一に数字、二に英語を強調しているかといえば、条件2.を成立させるためなのだ。数字というのは英語以上にユニヴァーサルでユビキタスだが、きめが粗い。それを英語で補うわけなのだが、これは「最大値」にこだわらなければ、日本語だってかまわないのだ。

共通言語の存在は、条件1.を満たしやすくするためにも必要である。「まだ誰もそれを言っていない」ということを知るのは、過剰な車輪の再発明を防ぐためにも必要である。究極的には、ネットワーク参加者の一人がそれを知っていれば事足りてしまうのだから。実際にはバックアップも含めて数人は必要で、そこまで考慮すれば66億人のMECEな知的ネットワークというのは不可能ではないのではないか。

もちろん、中には考えに考えに考え抜いた上でやっと得られる知恵もある。しかしそういう人類のお宝クラスの叡智でさえ、思いつく奴は一人でないことを我々は歴史から学んだはずだ。ポアンカレだって特殊相対論を見つけていたのだ。

そして各自が考え抜く過程で、智慧の衝突や車輪の再発明はどうしたって出る。「これは誰々が発明した」「これは誰々が発見した」と指摘するのはあまりに容易い。しかしそれは知的生産の必要経費とみなすべきで、過剰は慎むべきではあるけれど、「原典嫁」というのは過剰な倹約の勧めなのだ。

徹底的に考え抜くのは楽しいことだし、衝突と再発明を繰り返していれば、人はいやでもそうなっていく。しかし考え抜くことそのものは、知的な行為であっても知的生産ではないのである。誰にも語られぬ熟考は、はっきり言ってしまえばどこにも出荷されない製品を、ただ黙々と作り続ける工場にも等しい。

まずは語り抜けるようになろう。考え抜く力は、後から付いてくるのだから。

Dan the Intellectual Prouser