書評しそびれていたのだが、いいタイミングでこの記事が。
「真のゆとり教育」が生んだ18歳天才プログラマー - トレンド-インタビュー:IT-PLUS米国では科目別に飛び級制度があって、数学と科学で飛び級しました。この仕組みのよいところは、飛び級クラスは1年の3分の1の時間を使って、自分の関心のある分野の研究をしてよいことです。この時間を使ってCGの勉強ができたのです。ある意味「有効に機能したゆとり教育」だったと思います。
タイトルに騙されて、本書を「格差社会の結末」アメリカ版だと思ったら、中身はむしろ「夜回り先生」アメリカ版だった。
本書「アメリカ下層教育現場」は、日本の下層を味わって育った著者が、合州国でスポーツ記者となり、それがきっかけでネヴァダ州リノのチャーター・スクールで教えた、いや生徒たちとガチンコ勝負した体験を本にまとめたもの。
目次ちなみにチャーター・スクールというのは、一口でいえば高校をドロップアウトした生徒たちのための受け皿学校。大学ではない。高校である。著者はそこで"JAPANESE CULTURE"を受け持つことになる。
そのクラスは、彼が受け持った時点で学級崩壊の状態にあった。著者はその様子を往年の学園ドラマ、「スクール☆ウォーズ」に例えている。
この学級をどう引っ張っていくのかが本書の主題であるが、ネタバレにするにはあまりに面白いのでこれは各自本書で追体験して欲しい。私が指摘しておきたいのは、この「学級崩壊」クラスのクラス(苦笑)の、彼我の相違である。
まず、学級崩壊の様子。これは面白いほど差がない。授業中に生徒たちが勝手にふるまっている様子は、著者が日本のドラマにそのまま例えたほどクリソツだ。
しかし、そんな教室に秩序が現れ出す頃から、様相はがらっと変わる。
著者の教室では、生徒たちが自発的に質問するのである。「わかる人、手をあげて」ではない。
これが、かの国における授業の秩序なのである。授業に限らず、カンファレンスなどでもそうである。質疑応答の時間を待たずして質問をぼんぼん出すのがアメリカンなのだ。
これが日本であれば、この様子は秩序と見なされただろうか?
また、著者が担当した生徒の数にも注目しておきたい。その数19人。これくらいが、かの国における平均的なK-12(小学校から高校まで)の平均的な教室のサイズだったように記憶している。日本はどうだろう?私が文字通りの中坊だった頃には、40名以上だったと記憶している。娘が通っている公立小学校のそれは30名程度だ。
それで、ゆとり教育をやろうとしたことの方がおかしいのである。
日本の教室というのは、小(学校)から大(学校)、上から下まで、程度の差こそあれ「ブロードキャスト」主で「コミュニケーション」従である。日本において優等生とは受信感度が良好であることを指す。かの国ではこれは逆で、優等生とは発信能力が高いものをさすのである。
だから私はあらためてかの国がすごいと思ったのだ。
最下層でも、あれだけ自分の言葉を持っているのか、と。
あれだけ自分の言葉をもってもなお最下層から抜け出すのが難しいのか、と。
どちらが授業をしやすいかといえば、それはもう日本の生徒たちである。しかしどちらを雇用したいかと問われれば、私は著者が受け持った生徒たちと答えざるを得ない。彼らであれば、わずかな希望と報酬さえ与えれば、あとは自律的に動いてくれる。日本の生徒たちの場合、それに加え具体的な指示も与えねば動いてくれない。
私もかつて塾で講師をしていたことがある。そこで最初に生徒たちに伝えるのは、私のクラスにおいては優等生の定義が学校とは違うということだった。生徒たちはよくついてきてくれたし、成果も上々だったので生徒のみならず保護者からも感謝していただいたのだが、しかし学校と塾で「モード切り替え」を強いたわけでもあり、その意味では余計なコストがかかっていたということでもある。
ゆとり教育を非難するものたちは少なくない。しかしその「失敗」の原因をゆとりそのものに見いだすのは根本的に間違っている。ゆとりには相応のコストがかかるのである。そのコストを削減してきて「ゆとり」とは片腹痛いではないか。
今の学校に対して、カリキュラムがどうだとか授業内容がこうだとかいう細かな注文はない。まず教師の数を十分に増やせ。きちんと個々の生徒と話をしても授業時間に収まる程度に。これは授業種類や生徒の習熟度によっても違う。生徒の「位相」がそろっていればブロードキャストもOK。大学であれば1000人以上に対する講義も成立する。しかしこれが外国語ともなると、12人でもかなりきつい。
そうやってならしていくと、教師と生徒の比率は、1:20ぐらいがぎりぎりではないか。私の中坊時代の40人というのは論外。最近のデフォルトである30人でもなお多い。
日本の教育に欠けているもの - 雑種路線でいこう何故こんな子を育てられないか日本の教育は真剣に反省すべきだ。すげーうらやましいよ
同感であると同時に、それでも何とかなった自分を褒めてあげたくなると同時に、税金を払うのがまたちょっと癪になった(苦笑)。
まずは教師を増やせ。話はそれからだ。
Dan the Drop-Out
教室数・生徒数そのままで教師の数を増やすことはできません。職員室のキャパシティがないからです。また、一人の教師が半分の数の生徒を教えることと、1つの学級を二人の教師が担当することとは、別物です(後者の場合、どちらかが主担当、どちらかが副担当になり、学級運営の方針は主担当が決め、副担当はそれに従う)。さらに、単純に教師の数が増えると、教師間の統率がとりにくくなります。
そのため、教師一人当たりの生徒数を減らす=学校全体の生徒数を減らす、ことになります。そうすると財政負担が大変になりますが、その点、裕福な家庭の子女らが通う学習院といった名門私立なら、率先してやれるのではないかと思います。…ま、募集生徒数が減る方が問題だから、やれないでしょうけどね。