私はその場に居合わせたわけではないのだけど、Joel、わかってねえなあ。
デブサミ - ひげぽん OSとか作っちゃうかMona-建築に無駄な装飾をとりのぞくモダンアーキテクチャという流派があるが、ソフトウェアはまだその段階に達していない。ユーザーは装飾を好む。ウィンドウのありえないところに影があったり、金属でもないのに金属の見た目だったり。
確かに、ウィンドウの影というのは、ソフトウェアの機能に対しては何ら貢献していない。それどころかそれを実現するためにより多くの色を要求し、その色を表示するためにより高性能なディスプレイとメモリーを要求し....客観的なあらゆる指標で見て、パソコンの性能は20年で1,000倍以上になっているのに、主観的には全然上がっていない理由の筆頭が、これだ。
その一方で、パソコンはギークのホビーからみんなの生活必需品となった。なんでそうなれたかといえば、「装飾」を付けてもまともな速度で動くほどパソコンの性能が上がったのが一つと、そして何よりその性能のほとんどが「装飾」に注ぎ込まれたからだ。
もし1,000倍の性能が、同じ事を1,000倍やるためだけに使われたのだとしたら、こうはならなかっただろう。
ということは、その「装飾」は9割の、すなわち「装飾がついてからパソコンを使うようになった」人々にとって、装飾以上の意味があるということになる。
それは何か?物理である。こうした装飾を施すことで、本来はただのデータに過ぎない、ディスプレイに表示されるさまざまなものに物理的質感が与えられるのだ。そしてその物理的質感が、ユーザーの使用感をより自然なものとする。ものをつかめるのなら、ウィンドウだってつかめるはずというわけである。
結局のところ、現時点において我々は目を通してしかものを見れないし、手を通してしかものに触れられない。その制約がある以上、「仮想の現実化」というのは必要だし、それが現実に近いほど使用感は「自然」に感じられる。
なお、「どんなウソ」をリアルに感じられるのかという点に関しては、右の〈「見る」とはどういうことか〉が秀逸。例えばborder:outbox 1px;
というCSSが実はoutboxでもなんでもなくて、左上の枠を明るい色で、右下の枠を暗い色で表示しているだけなのはなぜか、というのがよくわかる。
私は常日頃からソフトウェアに装飾は必要ないと感じている
はっきり言おう。それであれば、ttyもまた装飾なのだと。キャラクタージェネレーターはコンピューターが文字を扱うのに何の寄与もしない。見やすくなるのは人間だけで、コンピューターから見ればそれは虚飾に過ぎない。あるのは、単にどこまで物理に近づければ充分にリアルなのかという閾値の違いだけである。
その閾値というのは、確かに昔からコンピューターに触っている人とそうでない人には差がある。まだttyしかなかったころに「コンピューターのリアル」を刷り込まれたものには、今のGUIはうざく感じるだろう。また、今のGUIから入った人も、ttyに慣れれば今度はそちらがリアルになり、今までの「リアル」が「装飾」に感じられるようにもなる。
しかし、それが当たり前だと思ってはならない。大脳がそれを装飾だと思っているだけでそれを装飾と断定してはならない。ユーザーが、それを小脳で「よけいなもの」と思うまでは、それは装飾ではなく「手がかり」なのだ。
自分の小脳を「オプティマイズ」して、物理離れした「シンプルな環境」を充分リアルと感じられるようになる人は必ず一定数いる(そういう人は、明らかにlispersに多い!)。しかしそれが多数を占めることはないだろう。もしそうなら、未だにQWERTYキーボードが生き残っているはずがない。
ウィンドウの影がうざい?結構。それなら口笛でモデムを駆動できるようになるべきである。なぜディスプレイなどという虚飾に頼るんだい?
Dan the Physical Being
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