ソフトバンクパブリッシングの上林様より献本御礼。いつもありがとうございます。

今度こそわかった。

なぜ君たちが自分探しを止められないのか。

そう。著者をも含む君たちが。

本書「自分探しが止まらない」は、著者を含めた多くの若者が「ハマる」、「自分探し」という「病」の症例集。ただし処方箋は書いていない。

目次 - 【A面】犬にかぶらせろ!: 『自分探しが止まらない』見出し一覧より
目次
第1章 世界に飛び出す日本の自分探し
スーパースターの自分探し / 若者の自分探しの旅は肯定されている? / 『あいのり』の旅で見つかる「自分らしさ」 / イラク人質事件に見る「自分探し」 / イラクで殺された香田さんの自分探し / 高遠菜穂子の自分探しの旅 / 現代の若者はまだインドを目指す / 自己啓発本のルーツ / 皮を被った自己啓発本 / 自分探しのカリスマ高橋歩とサンクチュアリ出版 / 自己啓発セミナーの歴史とニューエイジ / カルト化する自己啓発セミナーとX JAPANのToshi / ここではないどこか、もっとすばらしい何か / 現代における「信仰」とは / 自分探しの旅の起源と歴史 / 止まらない自分探しの旅と外こもり
第2章 フリーターの自分探し
フリーター問題は若者の甘えである? / フリーター前史 / フリーターという言葉の誕生 / サラリーマンは嫌だ、ギョーカイのカタカナ職業 / フリーターは明らかに増えている / 猿岩石が教えてくれた新鮮な労働観 / 現代の労働の得体の知れない感 / 猿岩石が変えたフリーター像 / フリーターが増える理由と新自由主義 / 「やりたいこと」の論理 / なぜ「やりたいこと」が重要視されるのか / 若者たちの「やりたいこと」とは何か? / 「やりたいこと」をやれとそそのかすのは誰? / 就活のバイブル『絶対内定』 / 個性重視教育に原因アリ? / 若者が夢を追うと格差社会が生まれる / 収奪される仕事の「やりがい」
第3章 自分探しが食い物にされる社会
自分探しビジネス / 沖縄に集まる自分探し / 高橋歩と島プロジェクト / 自分探し系雑誌 / お笑い芸人から路上詩人となりNGO代表へ / 美しい環境を守るための不透明な活動!? / ホワイトバンド狂想曲とその顛末 / 共同出版ビジネス / 自己啓発系居酒屋「てっぺん」 / ラーメン屋が作務衣を着るのはなぜ?
第4章 なぜ自分探しは止まらないのか?
誰が自分探しにはまるのか? / 消費で自己実現が果たせない世代 / 「ねるとん」世代と「あいのり」世代の価値観の違い / 安易に感動を動員する1990年代から「泣ける」のゼロ年代へ / 映画『ザ・ビーチ』に見る楽園探し / 「癒しとしての消費」と「さまよえる良心」 / ハルマゲドン2・0としての梅田望夫 / 団塊と団塊ジュニアの共通点 / 自分の内部に潜んでいるはずの可能性 / 世界と自分が直結した世界の行方
あとがき

ここで私は「自分探し」を「病」と書いたが、これは私の意見ではなく、著者の言葉を引用したものである。著者ははっきりとこう述べている。

PP. 195-196
自分探しは日本の若者だけではなく、先進国の若者たちを覆う病なのだ。

本書には、その症状がどんなで、そしてそれにどのような問題があるかを実に的確に述べていく。膨大な資料を分析し、要約し、批判することにかけて、著者の手腕は鮮やかだ。これは前作「タイアップの歌謡史」でも感じた事だが、本書ではそれにさらに磨きが掛かっている。

と同時に、前著で感じた、

404 Blog Not Found:書評 - タイアップの歌謡史
資料をまとめただけじゃない?

という感じも、著者には申し訳ないがより強くなっている。ただし前回の書評とは違い、今度は著者に対し感想以外の一言を語る事ができることができる。なぜなら、著者の抱えている問題が今度はよくわかったから。

「自分探し」に熱心なものの特徴は二つある。一つは他者に対する論評の、岡目八目的な的確さ。そしてもう一つは、自身に質問が向けられることへの、極度な恐れ。人のことならいくらでもしゃべるのに、「だったらお前はどう思う」という質問にはばったり押し黙ってしまうという感じだ。

それでも、本書において著者は「勇気を出して」あとがきでこう述べている。

P. 215
自分探しに迷う若者の姿であれば、目の前にいくらでも転がっていた。いや、鏡を見ればそれで済んだ。

その意味において、本書は人々の姿をタイルにして作った、著者自身のモザイク自画像とも言える。

それでは、なぜ著者も含め自分探しが止まらない人々はそれを止められないのか。

自分を決めるのが、怖いからだ。

そして社会も、自分を決めることを若者たちに強いなくなったからだ。

かつて自分が何者になるかというのは、自分よりも環境が決めていた。誰を配偶者にするかすら家が決めていた時代があった。そういった時代には、家が決めた許嫁を伴侶とするにしても、逆に自分が決めた相手とかけおちするにしても、自分が何者かを決めることから逃れる事は出来なかった。

しかし、今やそういった制約はほとんど存在しない。存在しない代わりに、かつては正にしろ逆にしろ他者に教えられ、決めて来た自分を、自分で教え、決めなければならなくなってしまった。世の中を清潔に平等にしていった結果、そこは「ドラゴンボール」の「精神と時の部屋」のように何もない場所。これじゃスーパーサイヤ人でもなければ、自分で自分をおっかけまわすぐらいしかないのかも知れない。

だからこそ、あえて自分を決めてしまうのである。嘘でもいいから。確証がなくてもいいから。

それは、「自分が思い描いていた自分」、「見つかるはずだった自分」とは違うかも知れない。実際の自分と「自分はこうだ」と主張している自分とのギャップを、人は揶揄し嘲笑するかも知れない。しかしこうだと決めた自分を「演じ続ける」うちに、それは確かに本当の自分になっていく。私とて20年前の自分に「おまえは妻子持ちになる」と言ったところで信じなかったに違いない。それでも妻子持ちになれたのは、自分が夫になることを、父になることを決めたからだ。探し当てたからではないのだ。

私が持つ「プログラマー」だとか「ブロガー」だとかいう属性も然り。確かに「妻子持ち」というものよりはかつての自分が「探していた」自分に近いが、「それが自分の本当の姿だ」と言われたら Getafuckouttahere! と全力で否定していただろう。

自分を決めた人というのは、一定の他者からは必ず滑稽に見える。どの角度から見ても理想的な人などいないのだ。それを見て嗤うのはあまりに容易い。しかし彼らは嗤われるだけましなのだ。自分を決めていないものは存在しないに等しい「幽霊」であり、嗤われる対象とすらなりえないのだから。

もっとも、「自分が決めた自分」になる難易度は、「こうである自分」と離れていれば離れているほど高くなる。「こうである自分」とあまりにかけ離れた「自分が決めた自分」は、滑稽を通り越して痛い。他者から見ても、もちろん本人にとっても。

その意味において、仮に「自分探し」というものが「病」だとしても、それははしかや風疹のように若いうちに誰もがかかり、かかっておいて然るべき病なのだと思う。若いうちは「患者」本人も世間も自分探しをする者たちに対して寛容であるべきだ。

しかし、0x20歳、すなわち32歳あたりを過ぎても「自分が見つからない」人々は、無理矢理にでも自分を決めてしまった方がいい。「自分を決めた者」を、自分探しをしている人々が嗤うのは確かだが、嗤わせておけばいい。

自分がないものに嗤われても、本当は痛くも痒くもないのだから。

Dan the Self-Appointed (Blogger|Investor|Programer|Father|Husband|...)