ありそうでなかった一冊。
なんでこういう組み合わせが今までなかったのかが不思議なぐらいだ。
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第3章 『韓非子』の名言
韓非子の生涯
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第2章 『論語』の名言
孔子の生涯
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孔子も韓非もどちらも実に有名で、そしてどちらも大いに誤解されている。そもそも「性善説」「性悪説」という言い方が私には正しいとは思われない。「性善説」は、「人は本来善である」のではなく「人は快楽を求める」に立脚した考えで、そして「性悪説」は「人は本来悪である」のではなく「人は苦痛を避ける」に立脚した考えとすれば、両社は矛盾しないのである。むしろ「追楽説」「避苦説」とした方がしっくり来そうだ。
あるいは、一文字で「文」と「武」だろうか。
その意味では、本書のありかたこそ正しいように思われる。
とはいえ、両者を併記するというコンセプトが良いだけに、構成はもっと練ってもらいたかった。本書では論語と韓非子を一章づつまとめているが、むしろ両者の言葉をジッパーのように互い違いに配した方がよかったのではないか。
取り上げた言葉が、それぞれ40しかないというのも残念だ。実は両者とも「これが孔子?」「これが韓非?」という以外な言葉を結構発しているのに、それを取り上げる余裕がほとんどないからだ。それでも「下地が悪いとどうにもならない」と「愚直でありたい」は何とか入っているのだが。
もう一つ物足りないのが、両者の生まれ育った時代背景。孔子と韓非の間には、江戸時代がまるまる一個入るほどの年月があるのだ。孔子が生きた春秋は、韓非が生きた戦国に比べればよほど穏やかな時代だったはずだ。両者の感心が、方や平和の維持、方や戦争の終結にあったのも当然といえば当然である。出自の違いも大きい。「少(わか)くして卑し」かった平民の孔子に対して、弱小国だったとはいえ一国の公子だった韓非。性善説のはずの孔子が強かに長生きしたのに対し、性悪説のはずの韓非があっさり秦で客死(李斯か姚賈のどちらかないし双方に謀殺された可能性大)というのも何かの皮肉だろうか。
いずれにせよ、人と人の世に関する洞察は、この両者でほとんど間に合ってしまうというのも大したものではある。人文学におけるピタゴラスとユークリッドのような存在なのだろうか。
およそ何でもありの中国の歴史において、民主主義が発明されなかったというのは謎の一つなのだが、両者があまりに早く思想を打ち立ててしまったが故に、その呪縛から逃れられなかったのかも知れない。いや、ある意味まだ逃れていないのかも知れない。毛沢東は主席というよりは皇帝だったし、今の中国の経済成長は、政治的には宋の時代を彷彿とさせる。
実は孔子と韓非に一番共通しているのが、「民は愚である」という前提である。彼らが「民が主」であることを建前にする国々を見たらどう思うのか、それを一番知りたい。
Dan the Empathetic Legalist
See Also:
アカデミックな向きには、頭から否定される人も多いですが。
韓非子の性善性悪からの超越は、すでに卓見されていた方です。