ありそうでなかった一冊。

なんでこういう組み合わせが今までなかったのかが不思議なぐらいだ。

本書〈右手に「論語」左手に「韓非子」〉は、性善説の代表的論者とされる孔子の「論語」と、性悪説の代表的論者とされる韓非の「韓非子」から、著者が40の言葉を選び、それぞれの言葉に2ページにわたって解説し、それを一冊の本にまとめたもの。ここでは文字通り左手に韓非子、右手に論語が来るように目次をレイアウトしてみた。

目次 (手入力)
第1章 性善説か性悪説か
性善説は脇が甘くなる
『論語』の人間学
『韓非子』の統治学
第3章 『韓非子』の名言 韓非子の生涯
  1. 権限を手放すな
  2. 組織内部にも戦いがある
  3. 小さな忠義立てが仇になる
  4. 機密を漏らすな
  5. 情報をどう使うのか
  6. 逆鱗に触れるな
  7. 「姦臣」に用心せよ
  8. 安全で利益のあるほうに付く
  9. 厳罰をためらうな
  10. 思いやりの政治は成り立たない
  11. 臣下を信用するな
  12. 「愛する者」に用心せよ
  13. 人は利益で動く
  14. 君臣の関係はソロバン勘定だ
  15. 不幸はどこから来るのか
  16. なぜ失敗するのか
  17. 些細なことから崩れていく
  18. 自分のことはわかりにくい
  19. 取ろうとするなら、まず与えよ
  20. 頼りにならない
  21. 愚直でありたい
  22. 洞察力を磨け
  23. 他人の秘密を知ると
  24. 能力をひけらかすな
  25. 内部の結束を固めよ
  26. 嘘も真実になる
  27. 殺されると分かっていれば
  28. 忠誠を当てにするな
  29. 「術」をもって治めよ
  30. 他人を頼むな
  31. 汚い手も使わざるをえない
  32. 凡庸な君主でもつとまる
  33. 楽しみが仇になる
  34. 危険から身を避ける
  35. バランス思考で対処せよ
  36. 君主にも三つの等級がある
  37. 恵まれた者は強い
  38. 働かざる者食うべからず
  39. 厳しさも必要である
  40. 人の善意をあてにするな
第2章 『論語』の名言 孔子の生涯
  1. 友を持ちたい
  2. 「仁」を身につけたい
  3. 重厚な人間でありたい
  4. 過ちを犯したとき
  5. 法にばかり頼るな
  6. どこで人を見るか
  7. 歴史に学べ
  8. 読み、かつ考えよ
  9. 嘘はつくな
  10. 「訥言敏行」を心がけたい
  11. 徳がほしい
  12. 下地が悪いとどうにもならない
  13. こういう人間になりたい
  14. 見かけも大切である
  15. やる気を出せ
  16. 乱暴者はご免だね
  17. 勉強の場はどこにもある
  18. 苦労が人を作る
  19. どこまで知らせるのか
  20. 四つの欠点がなかった
  21. 若者には可能性がある
  22. 真価は逆境の時に現われる
  23. 健康にも気を使った
  24. あやしげなものには近づくな
  25. これが望ましい人間像だ
  26. まず我が身を正せ
  27. あせってはならない
  28. 「さむらい」がほしい
  29. 和して同せず
  30. 謙虚であれ
  31. 人を怨んではならない
  32. 人の道をはずすな
  33. 悪意にはどう報いるのか
  34. 窮しても取り乱すな
  35. 長期の見通しがほしい
  36. 自分には厳しく、人には寛容に
  37. 平等な社会を目指したい
  38. こんな仕え方をしてはならない
  39. 素質を伸ばしていきたい
  40. 天命を自覚する
あとがき

孔子も韓非もどちらも実に有名で、そしてどちらも大いに誤解されている。そもそも「性善説」「性悪説」という言い方が私には正しいとは思われない。「性善説」は、「人は本来善である」のではなく「人は快楽を求める」に立脚した考えで、そして「性悪説」は「人は本来悪である」のではなく「人は苦痛を避ける」に立脚した考えとすれば、両社は矛盾しないのである。むしろ「追楽説」「避苦説」とした方がしっくり来そうだ。

あるいは、一文字で「文」と「武」だろうか。

その意味では、本書のありかたこそ正しいように思われる。

とはいえ、両者を併記するというコンセプトが良いだけに、構成はもっと練ってもらいたかった。本書では論語と韓非子を一章づつまとめているが、むしろ両者の言葉をジッパーのように互い違いに配した方がよかったのではないか。

取り上げた言葉が、それぞれ40しかないというのも残念だ。実は両者とも「これが孔子?」「これが韓非?」という以外な言葉を結構発しているのに、それを取り上げる余裕がほとんどないからだ。それでも「下地が悪いとどうにもならない」と「愚直でありたい」は何とか入っているのだが。

もう一つ物足りないのが、両者の生まれ育った時代背景。孔子と韓非の間には、江戸時代がまるまる一個入るほどの年月があるのだ。孔子が生きた春秋は、韓非が生きた戦国に比べればよほど穏やかな時代だったはずだ。両者の感心が、方や平和の維持、方や戦争の終結にあったのも当然といえば当然である。出自の違いも大きい。「少(わか)くして卑し」かった平民の孔子に対して、弱小国だったとはいえ一国の公子だった韓非。性善説のはずの孔子が強かに長生きしたのに対し、性悪説のはずの韓非があっさり秦で客死(李斯か姚賈のどちらかないし双方に謀殺された可能性大)というのも何かの皮肉だろうか。

いずれにせよ、人と人の世に関する洞察は、この両者でほとんど間に合ってしまうというのも大したものではある。人文学におけるピタゴラスとユークリッドのような存在なのだろうか。

およそ何でもありの中国の歴史において、民主主義が発明されなかったというのは謎の一つなのだが、両者があまりに早く思想を打ち立ててしまったが故に、その呪縛から逃れられなかったのかも知れない。いや、ある意味まだ逃れていないのかも知れない。毛沢東は主席というよりは皇帝だったし、今の中国の経済成長は、政治的には宋の時代を彷彿とさせる。

実は孔子と韓非に一番共通しているのが、「民は愚である」という前提である。彼らが「民が主」であることを建前にする国々を見たらどう思うのか、それを一番知りたい。

Dan the Empathetic Legalist

See Also: