以下のentryを読んで思い出したのが本書。
「選択の自由」が排除する人々 - 過ぎ去ろうとしない過去もちろん、安楽死と解雇は違う。子飼弾[原文ママ]は、雇用の流動性とベーシック・インカムの必要性を説く。同様の未来像がhttp://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080302/1204438491で示されている。あなたが解雇されたとしても、あなたが競争に参加する意欲があり、自分の能力を磨いて「生産性の高い」人間になる限り、また仕事に復帰できる。そのような社会が望ましいと。
ここまではとにかくとして、
では、競争に参加する意欲の無い、あるいは意欲があっても「生産性が低い」人間はどうなるか?確かにベーシック・インカムがあれば最低限の生活は送ることができるかもしれない。しかし、彼ら/我々は社会にとって不用であり、足を引っ張るお荷物として処遇される。
誰もそんなこと言っちゃいないのだが。
本書、「いのちの食べかた」のメッセージは、一つに要約できる。
人は、殺生なしに生きては行けない。
それを、頭ではなく体でわからせようというのだ。しかし著者に使えるのは言葉だけ。なかなか難儀な作業だが、著者はそれにかなり成功している。
目次 - Amazonのものを追補- 第1章 もしもお肉がなかったら?
- きみんちの晩ごはん
- 僕たちの知らないこと
- 牛とのおつき合いのはじまり
- お肉を食べないわけ
- すき焼きと豚肉の登場!
- 第2章 お肉はどこからやってくる?
- 牛と豚がやってくる
- おいしいお肉はだれのため?
- 二つの大問題
- お肉ができあがるまで
- 職人さんの名人芸
- 「人間」という生きもの
- いのちを食べるということ
- 第3章 僕たちの矛盾、僕たちの未来
- お肉禁止令
- 僕らはとても忘れっぽい
- 大人は、万能じゃない
- 「穢れ」って、なに?
- 「不浄」って、なに?
- 僕たちの「弱さ」の歴史
- 村ごと大引っ越し!?
- 小さな優越感
- 君はすべてを秘密にできるかい?
- メディアの過ち
- 無限大の傷つけ装置
- だまされることの責任
- 僕らの麻痺
- 忘れられない記憶
- 僕たちが生きているということ
- あとがき
本書がすごいのは、「殺生なしに生きては行けない」で止まらないところだ。そこで止めても本書は「よりみちパン!セ」の基準は満たしているのだが、そこで留まらないのが著者の欠点でもあり美点でもあり存在意義でもある。「死刑」もそういう本だった。
本書は、「人は殺生なしに生きる事はできないが、殺す者と食べる者が一致している必要はなく、事実そうなっている」ことを指摘し、その結果どうなったかを暴露する。
殺す者と食べる者が別になってから、何が起きたのか?
殺さずに食べる者が、彼らのために生き物を殺して食べ物にする者たちを蔑むようになったのだ。
食べる者たちは絶対的に殺す者を必要としているのに、殺す者が食べる者から得るのは、感謝でもなくましてや賞讃でもなく、侮蔑だったのだ。
なんでそうなったのか。私も知らないし、本書にも書いていない。
いや、強いて言えば、食べる者たちが殺す者を知らないからだ、というのが著者の主張だと感じた。なぜ私が知らなかったかといえば、彼らが知らないことを知らなかったからだということなのかも知れない。
私は、ニワトリやウサギなら屠ったことがある。小動物ですら、生きものを肉にするのは容易でないということは手で知っている。屠場も見学したことがある。そこでは人一人ではただ殺す事もままならぬ大動物たちが(豚でも100kgを超すのだ)、実に手際良く気絶させられ、血を抜かれ、そして肉になっていった。言うまでもないことだが、各工程は今でも手作業だ。そこでは人の手に握られた刃物が、生きた肉を切っている。
マッチョというのであれば、彼らこそ真のマッチョであった。そこで私が見たものはプロフェッショナルの躍動する美であり、感じたのはそこに加わるには自分があまりにウィンプ=非力であることから来る羨望だった。
ここまで血腥(なまぐさ)くなくとも、およそ仕事の現場にはそういう生臭い美があるものだ。それは何かの命を間接的にしても傷つけ殺しているものだ。たとえ人を殺していなくとも、獣は殺しているかも知れないし、獣を殺していなくとも草木を殺しているものだ。そもそもこの本にしても、木の死体で出来ているのだし、それを私の手元まで運んで来たのは、屍の成れの果てである石油を燃やして進むトラックである。
で、以下を見てみる。タイトルだけでおなかいっぱい。
さぞこの人の手はきれいなんだろうなあ、というのが私の率直な感想。手が汚れていたら、「魂と命を弄ぶもの」とか「自らの邪悪」とか言えないもんね。
少なくとも、私は言えない。私のために殺生してくれた人に「命を弄んだ」だとか「邪悪」だとか、とは。
技術者は、このことを知っている。いや、それを知らぬものはまだ技術者として一人前ではない。
「あしたの発想学」 p. 227口の悪い友人が「岡野、お前のところは、ほかの会社がなくなるものばっかりつくっているじゃねえか」って言うから、「あたしのせいじゃねえ」と言い返すけど、心の中では"これを作るとあそこがなくなる。かわいそうに"って思うよ。
うちが何かを作ると工場が増えて、五十人も百人も雇用できるようになるなら、日本の将来はバラ色だけど、現実はそうじゃない。その反対だもの。こんなふうに先行きが見えると、本当に嫌になってしまうね。
ソフトウェアの世界は、その意味では最悪である。一人が書いて公開してしまえばそれでおしまいなんだから。ましてやそれをただで公開しているオープンソースプログラマーなんて、鬼畜もいいところだろう。
それでも、私は自分が鬼畜であることを知っている。他の鬼畜が得た肉を分けてもらっていることも知っている。私がとりあえず出来ることは、自分が得た肉をふるまうだけだ。
もしかして、日本が成り上がり者に今なお冷淡な国である理由は、穢多非人の伝統が受け継がれているからなのだろうか。本書を読み返して、そんなことを感じ直した。
Dan the Sinner
めるものであるならば、会社はいずれドツボに嵌るだろうってだけのハナシなんだが。
つうか、会社も、著作物と同様に弾氏の《所有物》だと見なせるワケだから、その使用収益
について弾氏に決定権が認められるのは当然の事なんじゃないの?粘着していたネタか
らすれば。