そろそろ以下の質問に答えておこうか。
弱者に手をさしのべる強さ - マ儿コの日記 - + - +自分ひとりの力だけでマッチョになったの?誰の力も借りず?
まだ小さくて弱いあなたに手を貸してくれた本当のマッチョがいなかった?
答えは、どちらもNo。
自分一人の力で強くなったか? No.
手を貸してくれた人がいるか? 母を除けば No.
なぜどちらもNoとなりうるのか?
世の中には、「宛名のない善意」がいくらでもあり、そして今もなお増えているからだ。
私はそれを利用したに過ぎない。
「宛名のない善意」とは何か?
私にとって、それは道路であり、書籍であり、その他諸々の、「誰宛でもないけれども、私を含めた誰でも使ってよい」もの全てだ。
道路は私を救ってくれた。しかし道路は私を救うために敷かれたのではない。
書籍も私を救ってくれた。しかし書籍は私を救うために書かれたのではない。
これらには確かに「恩」がある。しかしこれらは「恩人」とは言えない。私にとって恩人とは、困っている私を「察した」上で、私に手を救いの手を差し伸べるものを指す。別の言い方をすれば、「私宛の善意」の差出人のことである。
「小飼弾の恩人」だと思っている方に先に詫びておくと、その意味において、私には恩人と呼べる存在はいない。いや、厳密には私が十分強くなるまで、私は恩人を知らずに来た。今はそういった恩人たちがたくさんいるが、彼らはいずれも私が強くなってから登場し、そして強くなればなるほどその数を増やして来た。これらの「私の新しい恩人」たちは、程度の差こそあれ「私もまた彼らの恩人」でもあるので、むしろ「友人」というべきだろう。マッチョ通しの相互扶助であると言い換えてもよいかも知れない。
話を元にもどす。弱かった私が強くなれた原因は、特定の誰かが、私を特定して救ってくれたからではない。不特定の誰かが、不特定の誰かのために用意しておいてくれたものを、使うことが出来たからだ。
「この本に救われた」という言い方がある。私もそういう経験は何度もしている。しかしその著者は、私のために本を上梓してくれたわけではない。その人が書いた本を、私がたまたま勝手に読んで、その結果私が勝手に救われたというのがより正確な事実なのである。
道路や政府や社会といったものに至っては、誰が作ったかすら明らかではない。しかし私はそれを使うことが出来たし、そして使ったことをとがめられることもなかった。
そろそろお気づきだろうか。こういった「宛名のない善意」というのは、自らそれを使わなければ何も起こらないということを。たとえ自分の目と鼻の先にそれがあっても、自分で手をのばさなければそれは存在しないも同様なのだ。
しかし、手をのばせば、確かにそれはある。
それが、私を救ったものの正体である。
「宛名のない善意」というのは、バイキング式の料理にも例えられるだろう。ビュッフェ(buffet)。スモーガスボード(smorgasbord)。料理は確かにそこにあるのだが、給仕が自分のテーブルに並べてくれるわけではない。給仕は自分自身の仕事である。
近代社会の大きな流れというのは、料理の数が増える代わりに、給仕の数が減るという言い方もできるのではないか。無料のインフラは時代とともに充実していく。不況のときにさえ、いや不況のときにはさらに充実したりもする。私の子供のころは、すぐに思い浮かぶのは道路と図書館ぐらいだったが、今はそれにネットが加わっている。
金を払えば、いや、金を払うだけで、使える「もの」はさらに増える。今でこそこれを我々は当然だと受け止めているが、かつては金を払うだけでは手に入れられないものはずっと多かった。生まれや育ちが合致しないと中に入れてすらもらえぬ場所がいくらでもあったのだ。
なぜそういう場所が減っていったのか? そういう場所があるというのが不公正(unjust)だからだ。特定の人々の、特定の人々による、特定の人々のための場所、というのは確かに恩人も得やすい。しかしその特定の場所がその人に合わなかった場合に、恩は仇となる。
それならば、世の中の恩を減らしてでも、世の中をより使いやすいものにした方がよい、ということになる。多少の波はあっても、洋の東西を問わず世の中はそのように進んで来た。給仕はいなくなってしまったが、テーブルの上に並べられた料理は今もなお増え続けているではないか。
食べきれぬほどの料理が手をのばせば届くところにあるのに、なぜ給仕が来ないことを嘆き続けるのか。
それが私にはわからないのだ。
これが、「弱者」の立場から見た光景。
今度は、「強者」の立場からこの様子を見てみる。
好む好まざるとに関わらず、料理が増え給仕が減るという流れは止まる気配を見せない。こういった時代に出来る「恩返し」とは何だろうか。特定の誰かを選んでその人を救うことだろうか。
それもまた一興。しかし「その人を救う」というのは、単に手を差し伸べることではない。その人の手がどこにあるかまで、差し伸べる側が知っていなければならない。さもなくば「小さな親切大きなお世話」に簡単になってしまう。誰かの恩人になるとは、かくのごとく難しい。
それよりも、料理の数をもう一品増やして取られるにまかせた方が、より多くの人がよりうまいものにありつけるではないか。
救いの手が現れないことを嘆くより、増えた料理がないかに目をこらす方がよほど楽ではないのか。
このblogも、そんなあまたの料理の一品として扱えばよい。不味ければ別の皿に手をのばせばいいのだ。
強者と弱者 - ここにいるだれかすべての強者が弱者を救う必要なんてないと思います。
というより、すべての弱者を救えるほどの強者は存在しない。そういう存在が仮にいたとしたら、それはもはや強者とは呼べない。その呼び名は、神である。
強者は自分が神でないことを知っている。だから彼らは身の程をわきまえて、テーブルに料理を置いていく以上のことはしない。それで十分ではないか。
自己責任(self responsibility)なんて大げさなものはいらない。必要なのは、自ら手をのばすこと、self-help なのである。
Dan the Self-Helper
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