これ、 bookmarks はてブされているのだけど、その中に私が満足いく回答がなかったので。

「二次元だから」レイプ凌辱大好きなのですか、お姉さん? - らめぇ
現実ではなくとも、やらせであっても、作品世界の中の彼女はたしかにレイプされたのだ。

「政府公式見解」は、簡単。「言論は自由だから」。「それはフィクションであり、キャラクターは言論にすぎないから」。学校のテストなら、それで正解になるはず。

問題は、なぜ言論は自由か、だ。ノンフィクションのレイプで保護されるのは被害者なのに、フィクションのレイプで保護されるのは加害者、というより加害者をも含めたそのフィクション世界か、ということなのだ。

実は、これにはわかりやすい説明が一つある。

答えを言う前に、なぜノンフィクションのレイプは犯罪なのか、を考えてみよう。

現実のレイプは、「取り返しがつかない」。被害者の「時」は、レイプがなかったところまで戻すことは出来ない。体は癒えても心は元通りには癒えない。これが殺人なら、体も当然癒えない。別の言い方をすると、社会が刑事罰を科すのは、犯罪の非可逆性に対してという言い方も言える。非可逆性が高ければ高いほど罪は重いというわけだ。

「なぜ殺してはならないか」「元通りにできないから」

実にシンプルである。

ところが、フィクションは何度でも「やりなおす」ことが出来る。バッドエンドが気に食わなければ、別のシナリオを書くこともできる。その点において、フィクションはノンフィクションと決定的に異なる。

なぜ、フィクションでは「何でもあり」が許されるのか。

かけがえが、あるからだ。

この点で象徴的なフィクションが筒井康隆の七瀬三部作の最終作、「エディプスの恋人」だ。少しだけネタバレになってしまうが、この最終作における火田七瀬は、前作で仲間と共に死んだ人物を、「神」が復活させたものである。「神」はある目的のために彼女を「復活」させ、そしてある行為を彼女に強いる。そしてそれを強いたことに対する詫びと礼として、「神」は彼女の仲間たちをも「復活」させる。

しかし、七瀬は礼を言うどころか、折角「復活」させた彼らを「謝絶」してしまう。

なぜだろうか。

本作そのものが文学であり、そしてフィクションである以上、「正解」は、ない。しかし、七瀬の気持ちは痛いほどわかる。彼女は彼らが復活することにより、彼らがフィクションである、そう、かけがえのある存在にすぎないことを認められなかったのだ。自らがかけがえのある存在にすぎないことを自覚させられるだけでも残酷なのに、彼女にとってかけがえのなかったものまで「かけがえてしまった」「神」は、そしてそれを創り出してしまった筒井康隆は、なんと残酷なのだろう。

日本の作家の中で、およそ筒井康隆ほどキャラクターに残酷な仕打ちを与え続けてきた作家も珍しい。ノンフィクションのかけがえのなさを知るからこそ、「かけがえのあるフィクション」を目一杯行使し、だからこそ「かけがえのあるフィクション」が公認されたというノンフィクションのかけがえのなさを自分ごととして捉え、断筆宣言までしてそれを守り抜こうとしたのではないか。

「二次元だから」レイプ凌辱大好きなのですか、お姉さん? - らめぇ
なぜそんなにあっさりと、二次元だから問題なしと割り切れるのか。

あっさりと割り切っているわけなんか、ない。あっさりと割り切れないことがわかっているからこそ、わざわざ憲法にまで書いてあるのだ。私にとって例えば火田七瀬は、66億人の「実存する人物」よりもずっと親しい存在だ。しかし、一読者として「神」と同じ力を火田七瀬に行使して、例えば「彼女はしあわせにくらしましたとさ」という、興ざめではあるけれども安心できる別の物語をいくらでも脳内に描くことができる以上、筒井康隆に火田七瀬の生殺与奪の一切の権限があることを認めるしかないのである。

だから私は、ダンコーガイ(小飼弾から派生したフィクショナルなキャラクター)がネットでどんな目にあっても、それを看過しなければならない。

ただし小飼弾(というノンフィクショナルなキャラクター)に対して同じような目にあわせようとするものは、当然対抗措置をとらせていただく。

それが、言論の自由だとか表現の自由だとかいうことの、私の解釈である。

Dan the Non-Fictional Being