レポートは以下に。

お招きいただいてありがとうございました。

すでにレポートが上がっているので、詳細はそちらを見ていただきたいのですが、博士を巡る諸問題というのは、本来「学位の最高位」であるはずの博士号が「機関研究員(institutional researcher)の最低位」になってしまったことにあるのではないかという思いを新たにしました。ぶっちゃけて言うと、「博士の足軽化」。

「研究」という行為そのものは誰もがやっていることですし、知識は全人類に平等なもの。私自身学(位)はなくても毎日楽しく学んでおります。一方、研究内容によっては、機関がないと進められないものもあり、こういった機関に多大な資金が投入されている以上、その運営者は The Best and the Brightest でなければならないという理屈も当然あります。誰でも機関投資家になれるわけではないのと同様、誰でも機関研究家となれるわけでもない。

問題は、その機関研究家免許として、博士号というのは果たして適切なのか、ということです。かつての博士号は、そうではありませんでした。あくまで「すごい研究」をした「結果」として与えられてきた。あくまで「結果」に対して与えられるので、学位未取得の博士すら存在します(有名どころではマイアサウラの研究で有名なジャック・ホーナーなど)。ところが、現在博士号を取得するほとんどの人々にとって、博士号は単なる過程に過ぎなくなっています。

このあたりのギャップが、博士が100人いる村のような事態に繋がっているのでしょう。

博士が100人いる村
まちではくし(のら)をみつけてもいじめないでください。
そのひめたちからをいかせずにくさっていく毎日に
たえきれず身をかしたのですから

しかし、そもそも博士号を取ったということは、秘めていたのではなく力を示したからのはずなのです。だからこれを見ても、同情は出来ても共感はしにくいのですよね。ましてや金どころか、学も運もない人たちの数は博士100人に対して数万人のオーダーでいることを考えれば。

それでも、貴族でもなければ博士になるのが絶望的だった産業革命以前の方がよかったとはとても思えません。かつて博物学の膨大なコレクションというのは、貴族が私的に集めてたりしていましたが、今や誰もが見れる場所においてあることが増えましたし、そうでないものも「学さえあれば」アクセスできるようになっています。その意味において、我々は学ぶということに関して、かつてないほど恵まれた時代にいるはずなのです。

そういった時代における「最高位の学位」はどうあるべきなのか。

これからも考え続けたいと思います。

Dan the Invited