実は、この議論において私はあえてあることを無視している。
404 Blog Not Found:陵辱が対ダンコーガイがOKで対小飼弾がNGな理由なぜ、フィクションでは「何でもあり」が許されるのか。
かけがえが、あるからだ。
読者の、心はどうなのか、だ。
確かにフィクションにおいては、任意の地点まで物語を「巻き戻して」別の物語を「分岐」させることも可能であり、また実際に行われている。ゆえに物語そのものは「かけがえのある」ものと言っていいだろう。
しかし、物語に触れることによって変わってしまった読者の心というのは、その意味においてかけがえがない。私自身、七瀬三部作をを読む前と読んだ後では、別の人間になったという自覚がある。それに限らず、優れた物語は優れた物語であるほど、「かけがえのない傷」を読者に残す。
私は、以前こう書いたことがある。
404 Blog Not Found:記憶とは、傷である。私は記憶とは傷であると考えている。形而上的な意味だけではなく形而下的な意味でも。詩的な意味だけではなく散文的な意味でも。
物語と読むというのは、その意味において自傷行為に他ならない。
それでは、読者の心の非可逆性をもって、言論の自由、いや物語の自由に掣肘を加えるべきだろうか。
ここで、一つの思考実験を試みたい。教材には、「リング」三部作を用いることにする。なぜこれにしたか、といえば、ここまで人口に膾炙した物語であれば、ネタバレもある程度許されるだろうと考えたからだ。
もし貞子が実在するのだとしたら、あのビデオテープは発禁すべきだろうか。
私は、発禁せざるをえないと考える。貞子は確実に見た者を死においやる。その事実に対して「言論の自由」を主張できるほど人類は強くない。「リング」三部作のうち最初の二部は、「致死性の毒としての情報」を巡る物語でもある。
しかし、最後の「ループ」において、そもそも「リング」の世界そのものがフィクションだったことが明かされる。「ループ」は「現実界がフィクション界を『巻き戻す』物語」となっている。
結局のところ、貞子は実在しないし、見ただけで確実に死ぬという物語もまた実在しない。しかし、我々は確かにそこから「死ぬかと思った」という体験を得ることが出来る。本当に死んでしまった人もいるかも知れない。「心臓が悪い方は見ないで下さい」という、今となっては陳腐なコピーにも真実のひとかけらぐらいは存在するのだろう。
しかし、現実問題として、ほとんどの人は、フィクションを見ても死なない。フィクションを現実と混同することもない。それどころか、フィクションで得た知見を現実に活かすことができる。
これって、何かに似ていないだろうか。
ワクチン、である。
弱い毒をもってより強い毒を制する、のである。
物語は、このように心理ワクチンとして作用してきた。ワクチンと同じく時には益より害が大きな場合もあるかも知れない。しかしそれ以上に、「もしフィクションのような暴力を振るったら、あるいは振るわれたらどうなるか」という傷を心につけることで、現実の世界でそれを防ぐ効果の方が大きかったのでないか。
実際、ポルノと性犯罪の関係は、統計を見る限りにおいて正ではなく負であるように見受けられる。エロゲーや暴力ゲームにも同様のことが言える。
それであれば、我々はフィクションという小さな不快には耐えるべきではないのか。少なくともあるフィクションにより誰かが凶悪になったという例だけをとりあげて、物語そのものが悪という言い方は、ワクチンが外れた事例があることをもって、ワクチンそのものを否定するようなものではないか。
フィクションであろうがノンフィクションであろうが、我々は物語で傷つく。
それならば、フィクションであらかじめ傷ついておく方がよいのではないか。
Dan the Non-Fictional Being



「悲しい出来事」=「悲劇」を、敢えて見る事で得られる
心の浄化作用、いわゆる“カタルシス”なんかにも
似ていますね。