本日は「死刑」を検索語にしたアクセスが多いのは、本blogが死刑に関して本人が思っている以上取り上げて来た結果かも知れない。

主 文
本件上告を棄却する。

とはいえ私の思うところは2008年4月22日の高裁判決時と何ら代わりはないので、同記事を再掲するに止めることにする。

初出2008.04.23; 2012.02.20再掲

この事件は、事件そのものより、そしてその判決より、事件から判決に至る過程にこそ意味があるものだったように思う。

livedoor ニュース - [光母子殺害]元少年に死刑判決 広島高裁
山口県光市で99年4月、母子を殺害したとして殺人と強姦(ごうかん)致死などの罪に問われた当時18歳の元少年(27)に対する差し戻し控訴審の判決公判が22日、広島高裁であり、楢崎康英裁判長は無期懲役とした1審・山口地裁判決を破棄し、求刑通り死刑を言い渡した。

社会が凶悪事件の被害者に対し、何をしていくべきかがより鮮明になったのだ。

いや、鮮明になったのではなく、本村洋氏が鮮明にしてくれたのだ。

そもそも、なぜ刑法が存在するのか。それが以下の言葉に凝縮されている。

光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】<1>「裁判所の見解は極めて真っ当」 - 毎日jp(毎日新聞)
被害者遺族は司法に感謝して、被告人はおのれの犯した罪を後悔して、社会が正義を再認識し、司法が威厳を保つことで、民主主義、法治国家は維持されると思いますので、そういった判決が出たことを心から感謝しております。

こういう言い方も変ではあるが、宇宙の法則は殺人を禁じていない。さもなければ福田孝行君が今日の判決を被告席で聞くという状況もありえなかった。宇宙は、我々に殺しのライセンスを与えているのだ。

これは、個々の人々にとって由々しき状況だ。誰もが殺人の能力を持ち、殺人の被害者となる可能性がある。これを防ぐにはどうしたらよいか。

一つの方法は、個別に防衛し、個別に復讐するというものである。かつて取られていた方法がこれだった。被害者が加害者を敵討ちするのである。しかし、これでは被害者が加害者よりも弱い場合には泣き寝入るか返り討ちにされるかしかなかったし、そもそも犯人を特定することすら困難な場合がほとんどだろう。

その代わりに我々が選んだのは、宇宙がくれた殺しのライセンスを、国に預かってもらうことだった。自らは殺しを放棄する代わりに、国は人々に代わって殺しを防ぎ、殺した者を処罰する。そして、人々はその費用を税金の形で負担する。「国は小さければ小さいほどよい」と言っている人々ですら、「暴力の預託先」としての国は必要だと言っている。

このやり方は、「個別警備」よりずっと賢明だ。防犯も逮捕も処罰も、個人ではなく組織で行うことができる。個人に比べて組織がどれほど有能で効率的かは、国を持ち出さなくとも我々はよく知っている。国という最大の組織に、最凶の仕事を預託するというのは実に理にかなっている。

以上を踏まえると、国の仕事というのは次の二つに分類される。

  1. 人々が殺されるのを防ぐ
  2. 人々が殺された場合の後始末をする

うち、1.に関しては日本はこれまで世界一といってもよいほどいい仕事をしてきた。

平成18年版 犯罪白書 第1編/第4章/第2節
正確な相互比較は困難であるが,各国の殺人の統計数値を見る限り,我が国の認知件数及び発生率は,各年ともほかの4か国を下回っている。

これは日本の警察力が高いと同時に、人々に「暴力は国に預託するもの」という意識が膾炙している証左でもある。そうでない国もある。たとえば合州国には未だ「暴力は各自で管理するもの」という意識が強い。拳銃が二億丁もあるのもそのためだ。その結果、殺人の発生率は日本の5倍近くにもなっている。

問題は、2.である。2.をさらに細かく見ると、以下のとおりとなる。

  1. 人々が殺された場合の後始末をする
    1. 加害者を処罰する
    2. 被害者に補償する

この2.2.の観点が、日本ではほとんど無視されてきた。しかし、それを怠るとどうなるか。

私刑が、復活しかねないのである。

実際そういう事件が死刑を廃止した国で起きている。

「サルの正義」死刑を廃止し、仇討ちを復活せよ P. 19
復讐権が国家によって抑圧されている今、凶悪な犯罪者を被害者を射殺したとしよう。この遺族はどうなるか。刑務所行きである。仮定の話ではない。現に、何年か前、西ドイツでそういう事件があった。幼い娘を強姦殺人された母親が、法廷で犯人をピストル狙撃したのだ。この強姦殺人犯人が冤罪であるおそれはまずない。証拠も証人もあり、犯罪事実の認定では争う余地はなかった。だが、むろん、この犯人は死刑にはならない。西ドイツは死刑廃止国だからである。幼い娘の敵を討とうとして復讐権を行使した母親は、かくて犯罪者となった。

「西ドイツ」というところに時代を感じさせるが、いずれにせよ、復讐権を取り上げるためには「復讐せざるを得ない状況を減らす」だけでは駄目だということである。国は復讐権を取り上げている以上、そして国自体も復讐を行わないとしている以上、国には被害者に復讐を思いとどまらせる措置を講じる義務があるということなのだ。

本村氏の功績は、まさにそれを主張し、国にもある程度それを認めさせたことにある。

光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】<3止>被告の反省文は「生涯開封しない」 - 毎日jp(毎日新聞)
実際に裁判に関わって、まったく被害者の権利を認めていない時代から、意見陳述が認められて、傍聴席も確保できて、そういった過渡期に裁判を迎えられたことは意義深いと思ってます。

死刑の是非というのは、それに比べたら些細なことである。

それでも、被害者への手当がなお寒いことは、以前

でも指摘したとおり。現在程度の改善では、とても被害者すべてを納得させる、というより「鎮める」ことは難しい。もし私が同じ境遇に立ったら、国に預けた「殺しのライセンス」を真っ先に取り戻しに行ってしまうかも知れない。自らの行動力を考えると、それは充分考えうるシナリオだ。

日本は、「殺人を防ぐ」という点で、世界有数の仕事をしてきた。しかしそれは「おきてしまった殺人の後始末をする」ことを怠る充分な理由にはならない。残念ながら殺人はゼロには出来ないだろう。なにしろ宇宙がOKを出している。これ以上減らそうと思ったら、それこそ国民全員を脳改造して、殺人衝動が起こったとたんに頭をふっとばせるようにするぐらいのことをしなければならないぐらい、日本の殺人事件というのは少ない。さすれば、改善の余地は「殺人事件が起きてしまってからの対処」の方にこそある。

なぜ日本の死刑廃止論者たちは、そのことを指摘しないのだろうか。被害者に対する補償が充分に篤ければ、死刑を求める声も減るはずである。廃止を訴えるのはその後でも遅くないはずだ。

Dan the Potencial Felony Victim(izer)?