これまた凄本。

「本物の体験でしか学べないことがある」ことを、読書という「本物ではない体験」を通して伝えることに成功した、まさに「真剣」の名にふさわしい一冊。

本書「真剣」は、文字通り「本物の剣」の話であると同時に、そこから生じた比喩である「真剣」、すなわち、「生死をかけてものごとにとりくむ」話でもある。まとめると「真剣を真剣で真剣に学んだ」一冊である。

目次 - 真剣 黒澤雄太 | 光文社新書 | 光文社より
はじめに
第一章 剣の道
第二章 礼と黙想
第三章 心の眼――「目付」その一
第四章 剣禅一如――「目付」その二
第五章 一刀両断
第六章 すべてに活かす
おわりに

著者は試斬居合の道場、日本武徳院の創設者。著者はそこで生徒たちに文字通り真剣を、真剣を使って教えている。

P. 5
僕は道場で、まず初めに真剣を手に持たせます。
はじめて真剣を手にしたとき。老若男女を問わず、みな目を輝かせ、初めて真剣にふれた喜びにあふれた表情をします。それは念願のものにふれられた無邪気な喜びであり、それでいて、相手が真剣だけに、その歴史や魂の重みといったようなことも感じている、非常に深みのある喜びの表情です。

その理由は、単純にして明快だ。

P. 6
僕が道場で、まず「真剣」を手に持たせるのは、「剣の道」の中心には「真剣」があるという単純で本質的なことを理屈ではなく感じてほしいからです。

これこそが、ペンが剣にどうしても及ばない点である。実際のところ、ペンになぜ力があるかといえば、読者が「『剣』を持ったことがある」からでもある。ペンで書かれたものそのものは、ただの模様(pattern)にすぎない。それから喜怒哀楽を想起するのは、実は読者の仕事である。読者は自分の経験のうち、書かれたことにもっとも適合する体験を当てはめながらただの模様を経験に変えていく。文字だけの本が子供に受けないのは当然である。彼らにはそれを「再生」するだけの経験のストックがないのだから。

そこまでは、たいていの人が「実感」しているはずだ。しかし、本書を読むと、それを実感するのに真剣ほど最適な道具はないようにすら感じられる。実体験の重さを教えてくれるのは、何も剣ばかりではないのに、真の剣ほど真剣を実感させてくれる道具がないのはなぜか?なぜ銃や槍ではなく、剣なのか。

真剣が、純粋な凶器で、かつ自らが傷つかずにはいられない凶器だからではないのか。

本書は、兵器としては真剣が役立たずのこけおどしであることをあっさりと冒頭で説明している。鉄砲以前でさえ、主力兵器は実は弓であり槍であった。兵器としての優秀性は、いかに自らは傷つかずして敵を傷つけるかにかかっているが、この点において剣は「最低」の兵器だ。相手に返り討ちにされる間合いに近づかなければ兵器としては役に立たないのだから。

文明の利器というのは、一つの例外もなく凶器となりうる。ペンもその例外ではないし、blogも然り。しかし兵器として作られた利器を除けば、我々は普段そのことを忘れている。それによって自らを含む誰かが傷ついてやっとそのことを思い起こす程度に。

しかし、剣は兵器であり、にもかかわらず兵器としては最低の器である。身長ほどの有効距離しか持たず、安全装置といえるものは鞘だけ。これほど役にたたない道具というのも珍しい、いやありえないかも知れない。

己と向き合う、という目的を除けば。

真剣は、道具として最低であるがゆえに、最高の自己対峙の道具となりうるのだ。

そんな真剣と6歳の時から向き合ってきた著者のペンは、真剣を心体で知るものにしか得られない切れ味を持っている。力んでいるところが全くなく、それでいてものごとの本質を実に的確に捉えている。剣を知る者のペンは、これほどまでに強いのか。

私も、真剣で真剣を学び直したくなった。

Dan the Perpetual Beginner