そろそろ以下に答えておこうか。

「選択の自由」が排除する人々 - 過ぎ去ろうとしない過去
もちろん、安楽死と解雇は違う。小飼弾は、雇用の流動性とベーシック・インカムの必要性を説く。同様の未来像がhttp://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080302/1204438491で示されている。あなたが解雇されたとしても、あなたが競争に参加する意欲があり、自分の能力を磨いて「生産性の高い」人間になる限り、また仕事に復帰できる。そのような社会が望ましいと。
では、競争に参加する意欲の無い、あるいは意欲があっても「生産性が低い」人間はどうなるか?確かにベーシック・インカムがあれば最低限の生活は送ることができるかもしれない。しかし、彼ら/我々は社会にとって不用であり、足を引っ張るお荷物として処遇される。

私が誰を「足を引っ張るお荷物」と呼んだのだろうか。

仮に社会にとって有用な人間を定義できるのだとしたら、なぜ「社会のお荷物」をわざわざ処遇する必要があるのだろうか?社会的に「荷物を捨てた」方がいいに決まっている。

ナチスがやろうとしたのが、まさにそれである。彼らがガス室に送り込んだのは、ユダヤ人だけではない。ロマ(a.k.aジプシー)も送り込まれた。ガス室に送り込まれなくても、断種手術をさせられたものもいる。なぜか。

彼らは社会にとって有用な人間を定義できると信じ、その信じるところに従ったからだ。

ベーシック・インカムの理念は、その対極にある。

なぜ、ベーシック・インカムか?

誰が社会にとって有用な人間か、判断できるほど我々は賢くないからだ。

我々は、何を生産するかを選ぶことはできる。しかしそれが社会の生産性を上げるかまでは残念ながらやてみなければわからないのだ。ぶっちゃけ、何が当たるかわかるのであれば、ベーシック・インカムは不要どころか有害ですらある。「有用な人間」に集中投資すればもっと生産性が上がるのは目に見えているのに、その逆を行こうというのだから。

いや、かつての日本はそうだったかも知れない。高度経済成長というのは、国を挙げて選択と集中を行い、それがうまく行った--ように見えていたのだから。らい予防法の廃止まで1996年までかかったというのは、要は国を挙げて「無用な人々」を忘れていたということだろう。

今は、違う。今はかつてないほど、何が有用で何が無用なのかわかりにくい時代だ。私は生化学者になろうとして落ちこぼれ、ハードウェア技術者になろうとして落ちこぼれた。その結果がソフトウェア技術者だったのだが、たまたまこれが「当たった」わけだ。たしかに「今後はソフトウェアが伸びる」というヤマ勘がなかったといえば嘘にはなるが、私はソフトウェア技術者は生産性が高くて高給が狙えるから、という積極的な理由ではなく、他の分野の才能が食って行けるほどなかったから、というどちらかというと消極的な理由だ。私が社会に合わせたのではない、偶然にも社会が私に合わせてきたのだ。

ベーシック・インカムというのは、その意味で誰に対しても一定量までは社会が合わせることを制度化するものとも言っても良い。もちろん誰もが億万長者になるのは不可能だ。しかし「ベーシック」程度であれば不可能ではないのではないか、というのは今まで示してきた通り。

ソフトウェア技術者になる、というのは確かに私が決めたことだ。しかしそれに対していくら支払われるべきか、ということを決めたのは客であり、客とは客体であり、そして客体とは社会のことである。

何をどれだけ生産するのか決めるのはあなただが、それがどれだけの生産性に値するのかを決めるのは社会であり、そして社会を俯瞰してわかるのは「今この瞬間はどんな仕事にどれだけ生産性があるのか」という「現在の相場」だけであり、将来それがどうなるのかというのはかつてないほどわかりにくいのだ。

続・自殺もまた自己表現である - らめぇ
そんな糞の役にも立たねェ憐れみなんざいらねェからこのまま惨めに死なせてくれや

これほど謙虚に見えて傲慢な意見はないだろう。その生が、そして死がそれほど惨めかどうかというのは結局自分ではわからない。わかると思うから自分を惨めだと思う。自分を惨めだと思うから、自殺する。

続・自殺もまた自己表現である - らめぇ
しかしそれは彼女の悲惨な境遇を救済しうるのか?

彼女の境遇が悲惨かどうかはさておき、彼女に必要だったのは憐れみではなく衣食住だったことは確かだ。

Dan the Productive Blogger, Whatever "Productive" Means