それは、間違いだ。

ドタキャンばかりする人々と,何年でも無遅刻無欠勤を続ける人々 - 諏訪耕平の研究メモ
ルールがきつくなればなるほど,人々は寛容さを失う。これは間違いないと思う。

少し落ち着いて考えれば、わかる。

寛容が成立するためには、以下の手続きを踏まなければならない。

  1. 約束
  2. 約束の不履行
  3. 制裁

この3.の段階において、制裁を課せられる者が期待(expectedというよりfeared)よりも少なく課せられることが、寛容である。許すためには許すか許さざるかという選択肢が必要で、その選択肢を成立させるのが約束である以上、約束なしには寛容はありえないのだ。

問題は、だから約束=ルールそのものではない。過剰な約束と、それによる約束の不履行の乱発、そして乱発された約束不履行の損失を補填するための過剰な制裁、すなわち不寛容なのである。

それで仕事をクビになるようなドタキャンであれば這ってでも行くだろうし,大好きな恋人との約束であればそうそうドタキャンはしないだろう。関係性が薄ければ薄いほど,利害関係が発生しないような関係であればあるほど,困らないし,怒られないのだ。

これは、半分正しい。重要な約束ほど守られる公算が高くなるのだから。しかし、関係性というのは寛容を考慮すると話は変わってくる。同じドタキャンするのでも、初めてのデートと夫婦のデートではどちらがドタキャンしやすいか考えてみれば明白だ。むしろこの場合、関係性が深いほど、相手がより寛容であることが期待出来、その結果ドタキャンが発生しやすくなる。

結局のところ、なぜ人は約束するのだろうか。そして約束を守るのだろうか。

その方が、利益になるからだ。

もちろん制裁を恐れて約束を守るという、「ムチ」の効果もあるけれども、これは約束を守る理由の説明にはなっても約束する理由の説明にはならない。約束する時点では「ムチ」はないからだ。約束そのものにアメがあるはずである。

で、約束がどんなアメをもたらすかといえば、これは大きい。まず、現在の商慣行は、約束を大前提にしている。約束→履行→報酬というサイクルが商売の根本である。この点においてはサラリーマンもフリーランスも変わることがない。サラリーマンの方が「約束の一括度」は高いけれど、その分フリーランスの方が不履行のコストが大きい。どちらにせよ最初に約束がある。

しかし、その点を差し引いてもなお約束には価値があるように見える。それは何かというと選択コストの削減。約束さえしてしまえば、「明日何しよう」ということで思い悩む必要はないのだ。約束の報酬として、このことはかなり大きいのではないだろうか。

むしろ選択肢の多い社会の方が、約束が重くなる理由もこれで説明できる。選択肢が多ければ多いほど、選択コストは大きくなる。それゆえ約束が破られたときの損失も大きくなる。そのため不履行の際の制裁も大きく設定されがちとなる。

少選択肢小制裁の社会がいいのか、多選択肢大制裁の社会がいいのか、私には正直わからない。しかし前者から後者への流れというのは、現時点において全世界的なトレンドでもある。さすれば、約束不履行時の不寛容を嘆くよりも、約束履行の報酬を上げてもらう方が理にかなっているのではないか。

「ルールでがんじがらめ」と考えるのではなく。ルールを守った際に得られる報酬が安すぎると考えるのである。報酬が充分なら、しなければならぬ約束も減るのだから。

Dan the Appoint(ed|ing)